無理して頑張らなかった卒論
悔しかった、卒論で優秀賞取れなかったことが。誠実に取り組んだはずの卒論。でも『上には上がいる』と言う事実に、今更ながら打ちひしがれていて。
たまたま流れてきた学科の、インスタの投稿-最優秀賞に輝いた、学生と学科長とのツーショット写真、付随された学生のコメント-を見たのがいけなかった。
そりゃそうか。提出の前日に、自分の文章に自信が無いと喚いている学生の卒論なんて、無価値だよな。こんなものは候補にだって、入っていなかったはずだ。きっとそうだ。
私の卒論、口頭試問が終わってから、父親から事ある毎に、見せて欲しいって言われてるけど、曖昧に答えては逃げてる。今更、見返すのも恥ずかしいから。あんなもの。
嘘。本当はそんなこと思っていないでしょ。何また天邪鬼になって、誰かの気を引こうとしているの。最低だよ、そういうところ。自分の為にも、早く直したほうがいい。
本当は、先生の期待に応えたかった。でもそれは、『当時の自分が無理をして頑張る』と言うことと、同義だったんだと思う。
本音。私はもう、無理してまで頑張ることをしたくなかった。だからあの時、私は敢えて『無理して頑張らないこと』を、自分の意思で選んだ。全力を尽くさなかった。
これは決して、手を抜いた、訳では無い。ただ、当時の自分を守るためにそうしただけ。再び、燃え尽き症候群にならないために。もう壊れたくなかったから。
そうやって全てが終わった今なら、なんとだって言えるよね。結局、当時の自分が無理してまで、頑張らなかったかどうかなんて。その時の自分にしか分からないんだから。
私は優秀賞を取れなかった。その事実が、全てを物語っているんだから。負け犬の遠吠え。
傍目には、卒業が!単位がやばい!etc…なんて言っている人がいて。そんな人達に対して「自分を守るために、私は卒論や卒業する為の諸々のことを、無理に頑張らないことにしている。」なんて言える訳もなくて。周囲に対して、4年の当時もただひたむきに頑張っている、フリをした。
然れどそれだって、単なる綺麗事に過ぎない。私はまた、無理して頑張ってしまっていたくせに。心を開示している人の前では、沢山弱音を吐いたくせに、今更、本当に何を言っているんだろうか。
こう書けばまるで、頑張ることが「悪」のように思えてきてしまう。でもそうでは無い。頑張ることは悪いことでは無いし、反対に頑張らないこともまた、悪いことでは無いと私は思うのだ。なぜなら、美咲頑張ってるね!って、友達から言って貰えるのは、素直に嬉しいから。それだって、嘘では無い。
ただそれは、友達という、自分以外の他人による、事実に対する解釈のひとつ、でしかなくて。それは私の好きな哲学者であるニーチェの、"事実は存在しない、存在するのは解釈だけだ"と言う考え方に、則っていると思う。
いいじゃん。当時の自分が無理してまで頑張ることをしないと決めて、最後までそれを遂行した。賞レースには乗れなかったけれど、私の卒論の成績は、S評価だったんだから。
嬉しかったんでしょ?本当は。卒業式の日に渡された、成績表に書かれていた成績を目にした瞬間。嘘だって思って、思わず、二度見した位には。結果だけじゃない。完成するまでの過程だって、主査と副査のお二方は、ちゃんと見てくださっていたんだから。
その上、賞が欲しいだ?贅沢なんだよ私は。目の前にある幸せを、蔑ろにすんな。欲張るな。
それに先日の謝恩会の時、大好きな先生とお話させていただいた時に言われた。「美咲さんの文章、いいですね、なにか光るものを感じる、好きですよ(意訳)」って。
そんなふうに言ってくださる人がいるんだから、もうそれで十分だよな。
加えて先生から、何かしらの形で、私がこれからも書くことを続けられたらいいなと思うよ、と言われた。純粋に嬉しかった。
書くことは続けると、ここに誓う。それはnoteでも何でも。私は書いて感情を言葉にし、それを発信することで、ようやく人並みに息ができる、人種のようだから。
頑張るのも頑張らないのも、はたまた頑張れないのも。全部全部、自分の一部なんだ。
そうやって、自分の気持ちと折り合いをつけて、私は今を生きていくんだよ。
読んでくださってありがとうございます。