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年金の話をされると苦しくなる
現在、学生特例で年金支払いを先延ばしにしている私は、3月に卒業を控えている。そこで父親から、私の大学卒業後の年金の支払いについて、どうしようか、と言う話になった。
ここで先述しておきたいのは、話を切り出した父親はまったく悪くない、と言うこと。あくまでも、自分自身の、年金に対する捉え方に、歪みがあるんだと言うこと。
今自分が生きていること、これからも生き続けることが確約されたような物言いは、聞いていて、とても苦しくなる。
誤解されたくないのは。
私は決して、死にたいとは思っていない。
ただ、これから先も、私が生きている。
そんなことが、思えないだけ。そんな未来が、見えないだけ。
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私は年金をもらう年齢まで、生きていないと思う。
いや、そこまで「生きていたくない」んだと思う。
私は何を言っているんだろう、我儘もいいところだ。この世には生きたくても生きられない人だって、いると言うのに。
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「〇歳まで生きていないと思う」
私がこんな風に思うのは、別に初めてのことじゃない。
例えば小学3年生の頃、私は私が20歳まで生きているとは、思っていなかった。生きているイメージができなかったから。
当時の私は、1日を終えては安堵していた。明日、未来がくることが怖かった。と言うのも、私はクラスメイトから、およそ一年、いじめを受けた。毎日、その日のいじめに耐えることで、精一杯だったんだと思う。
それで、明日が来ることが怖かった。また明日も同じことの繰り返し。そう思ったら絶望しか感じなくて。
だからそんな何年も先のことなんて、考える余裕がなかった、と言う方が正しいのかもしれない。
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じゃあ今はどうか。いじめられていないどころか、過去一と言ってもいいくらい、今の私は環境に恵まれている。
大学と言う居場所に出会えて、素敵な人達とたくさんかかわれていて。本音を曝け出せるようになって。私は私でいいんだって思えた。
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ならば、今の私が絶望する要素って、どこにあるんだろう。
ひとつあげるとするならば。
卒業後、社会人として生きる。
そんな、世の固定概念のようなものに、束縛されているように感じていることが、苦しいと感じる、と言ったところだろうか。
誤解して欲しくないのは、私は「働きたくない」と思っているんじゃない、と言うこと。
寧ろ働きたい。新たな居場所を見つけたいし、昨日の私よりも、ちょっとでも成長している私を、そんな自分をいちばん近くで、見続けていたい。
ただ、その居場所がまだ見つかっていないことへの焦り。
この焦りが、時々、私の心を暴走させるんだろうなと思う。まあまあちょっと落ち着けよと思う。だって、そんなに焦ったって仕方がないのに。こればかりは、一朝一夕で決まるものでもないのに。
一先ず水曜日、ハローワークの担当の職員さんが出社予定なので、その時に電話させていただくことにする。
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都内でも積雪があった今日は、凍てつく寒さだった。お互い暖かくして、この寒波を乗り切り春を迎えたいものですね。
読んでくださってありがとうございます。