『望み』
雫井 脩介さんの「望み」という作品を読みました。
ちょうど今映画も公開されているようですが、その配役も魅力的ですね。
石田ゆりこさんがお母さんという時点で既に面白い。と思ってしまうのは、幸せ家族の崩壊劇「夜行観覧車」の印象が強いせいかもしれません。
物語には、息子が行方を眩ませた同時期に息子の友人が殺害される事件が発生、答えのない暗い迷宮をぐるぐると迂回する家族の心情が描かれています。
小説では各々の細かい心の動きが順を追って詳細に表現されているために
読んでいるだけで被害者家族、加害者家族両方の心情に無意識に迎合してしまい
読み進めるほどに苦しくなってくる作品でもありました。
後半にネタバレ含むレビューをしますが、これから作品を読まれる、及び映画を観覧される予定の方は、何も情報がない状態で出向かれることをお勧めします。(ネタバレライン表示します)
読み終えて最初に出た感想だけを先に置いておきます。
家族であっても独立した個人であって、他人であって、
その人物の考えていることや感じていることは、どれほど近しい家族であろうとわからない。
そして、すべての人類が根底で欲している愛情とはなんなのかということが
はっきりとわかります。ここが満たされれば、犯罪そのものが無くなります。
また、便利な情報社会を背景にした中傷問題や、人を傷付けてしまったことへの代償の大きさなどは誰が見ても感覚として落ちるように描かれているので
とてもタイムリーで大多数の人の心を動かす作品であるとも思います。
「産んだら他人」という言葉を、このブログには時々書いています。
どれほど幼かろうと、たとえ遺伝子で繋がっていようと、親とは別の人間であるがゆえ
その人物を完全に理解することは、不可能です。
”あの子は〇〇な子だから”と親のフレームに入れてしまうのは、大きな妄想過信であると思うのです。
ですから家族がこういった事件の張本人になった時に”信じる”ことをするしかないという物語のタイトルさえ、エゴであるとも言えます。
自分ではない他人について何かを仮定して”信じる”ということのほとんどは、それが生死であったとしても
家族としての自分にとって、都合が良いこと。なのではないかと思います。
これを「母親」という立場からの視点で描くことこそが、人々の集合意識を刺激する力を持っていることは確かです。
しかし私は、その奥に隠れている更に大きな視点を見つけてしまいました。
※以下、ネタバレ含みます。
とても大事なことを書きますが、ネタバレせずには書けませんでした(笑)
物語の中で涙が止まらなくなった場面が2箇所ありました。
一つは、
事件の最中、はっきりした答えが見えないまま時間だけが経過し、どんどん覇気を失くしてゆく娘(貴代美)を心配し、手料理を持って訪れた母親がかけた言葉。
もう一つは、
被害少年の葬儀に出掛けていき、腕を引っ張られなが「息子はやっていない」と叫ぶ父親(一登)の姿です。
一般的なレビューをすれば、母親というのは体内に入る食事を提供することにより子供の心に寄り添い、そして包み込んでゆくのだと確かめるシーンでもあり
それは後半、貴代美自身が息子に同じことをしてやろうとするシーンでも無意識に思い起こされるように構成されていました。
究極の状況下ではどんな母親でも、貴代美のように思うであろうと思います。
貴代美の母親の言葉には、”どんな娘であっても受け入れる”という強烈な赦しが含まれていました。
冒頭に書いた、全人類が欲している愛情とは、これではないかと
私は思っています。
それは「不幸であることさえ許す」といった、世間の言う「愛」が著すものとはかけ離れたものにも思えますが
そもそも幸せである必要なんて、なかったのです。
誰かが定めた幸せを目指すこと、否、それ以前に
不幸の中でもがき苦しむ人生さえ、とても尊く、愛しいものであると言っているのです。
それを、実の親が許してくれるのなら、人生を怖がることなく、謳歌できると思いました。
どれほど惨めで見窄らしい姿を見せても、哀れまれることなく「それでいいのよ」と肯定してもらえたなら
苦しむことを許してもらえたなら、
何も演じることなく、自分にも他人にも嘘をつくことなく、安心して苦しむことができる。
そしてそれこそが”生きている”という強さなのだと思います。
しかし私はその下にある更に大きな愛に意識が惹かれてしまったのです。
どんなあなたでも赦す
貴代美の母親の言葉は、貴代美の感情に寄り添う”生きていればいい”といった意味合いのものであると思います。
ですが私はこの”どんな”の中には、幸せを諦めることも、不幸の渦中でもがくことも、そして究極は死を選ぶことまでもが、含まれていて欲しいと思いました。
逆説的ではありますが、苦しみのど真ん中にいる時に「死んでもいいんだよ」と言われたら楽なのではないかと思っています。
苦しみの中で改善や幸福を求めなくていい。
死にたいほどの苦しみの中で、生きようとしなくていい。
死んでもいいんですよ。だったら何も怖いものなんてありません。
物語の中では、姿を消した息子の意志を”切り出しナイフ”が代弁しています。
そしてこの切り出しナイフと言葉にならない会話を交わした父親が、被害少年の葬儀に出掛けてゆくのです。息子の無実を伝えるために、はたまた
一度でも疑ってしまった自分に対する制裁を受けるために。
誰かの親であっても
誰かの子であっても
ほぼ全ての人が抱えている、この形のない罪悪感のようなものの正体は
一体なんなのでしょうか。
私はこの作品を読み終えて、一つの答えに辿り着きました。
初めて自分で家賃を払い、どうにかひとり暮らしと呼べる生活を始めたのは、今から20年ほど前でしょうか。
泣き喚くほどの負の感情であれ、踊り出したくなるような歓びであれ
自分の感情全てを制限することなく吐き出せる場所を持てた解放感と安心感は
それまでの人生で1度も感じたことのないものでした。
感情、そしてこの「私」そのものを全てそのままで良いと認めてもらえない家族の中で抑圧にもがき、苦しみ戦いながらも
私はいつも、どこかで知っていました。
私がたとえ人を傷つけ殺めようとも、どんな姿の子に変貌しようとも
両親は私を受け容れる。ということを。
人生を苦しみに追いやる発端は、間違いなく感情抑圧です。
それは、生まれ育った環境によって制限され、幼少期〜少年期の埋め合わせをするように、私達は生きていきます。
家庭での無言の制限が強ければ強いほど、潜在意識下に恨みや憎しみ、怒りを抱え
溜まった感情を発散させるために他者を中傷し、問題を起こすのです。
しかしそんな自分を作った家庭、両親は
自分の命に替えてでも、子供を守るというのです。
その強い覚悟に
私達は苦しんでいるのかもしれません。
幼い私は、あなた達に怒っている。だからそんなに、愛さないで下さい、という想いが、罪悪感としてこぼれ落ちるのです。
無意識に抱えた怒りと相反する愛と罪悪感。後悔と自責。
家族に付き纏うこの感情は、事件が起きて浮き彫りになっただけであって
本当はずっと昔から、一人一人が感じていたものであったのでしょう。
そしてこれは、コロナウイルスを通じて表面化した各々の問題とも近しい何かを覚えます。