言語能力は自我を破壊するか、育てるか。
「書けない」のは完璧主義と、面倒くさい自意識のせいだった。
男の料理じゃないけれど、自分の納得度合にも、型にも自信がなくてつまずいてしまうのは、「読まれる文章を書ける私」でいたいとき。
一方、フロー状態で書いているときって、「うぉう、脳内会議がフィーバーしている!!!急いで議事録を取らなきゃ」という感じ。
自我から離脱できるつかの間が、とてつもなく幸せ。
「人の評価は気にしない、自分が楽しいから書く」って、一見意識が「自分」に向かっているようで、実は意識を自分から離す方向だったのか。
以前、とある性愛のプロ(?)にお会いした際、「君はそれだけ言語能力が高いと、相当自我が強くて大変でしょ?なかなか太刀打ちできる男性はいないよ」と衝撃のお言葉をいただいた。
そのあと、自我の破壊衝動と、恋愛やセックス、クスリやギャンブルの関係について話していたんだけど…。
書くことは、一人でできるし、合法なラリパッパ状態だな。いぇい。
読書がやめられないのも、「圧倒され」る楽しさがあるから。
しかし、読書を通じて言語能力を高め、さらに自我の要塞を築いていく矛盾。
知らぬ間に築いてた自分らしさの檻が強固になっていくよ…!
あれ、書いてて全然自意識から離れていない…私本体が、コンテンツ要素であふれているんだね、きっと。
なんだか話が抽象的で大きくなってきたw
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