[サントリーホール サマーフェスティバル2022]ザ•プロデューサー•シリーズ クラングフォルム•ウィーンがひらく クセナキス100%(クセナキス生誕100周年プログラム)
ヤニス・クセナキス(1922~2001):
『ペルセファッサ』6人の打楽器奏者のための(1969)*
バレエ音楽『クラーネルグ』オーケストラとテープのための(1969)
クラングフォルム・ウィーン
指揮:エミリオ・ポマリコ
打楽器:イサオ・ナカムラ/ルーカス・シスケ/ビョルン・ヴィルカー/神田佳子/前川典子/畑中明香*
ペルセファッサ…聴衆を取り囲んで配される6人の奏者の間で音像が激しく行き来する。マルチトラックの電子音楽を聴いているかのよう。ことに木片の乾いた乱打音などはさながら「ペルセポリス」など電子音楽で聴こえてくる音だ。夥しい数の音が飛び交う中に身を置いていると、あたかも音響の海に身を委ねているようで、独特の陶酔感がある。
精密に制御された電子音や録音された器楽音ならば、ズレの生じる隙はない。一方、人間のとるカウントには限界がある。それゆえ、生身の奏者が演奏することによって、ごく小さな齟齬が生まれ、うねりをなす。作家の狙いはそこにあったのだろうか。また、音が帯びる力や熱は、あくまで奏者、すなわち人間が与えるものだ、ということか。
クラーネルグ…演奏が始まってしばらくは器楽とテープ音の関係性が掴めず、なんとなく居心地が悪かった(テープと言っても、素材は舞台上にいるのと同じオーケストラの演奏なので、録音では区別がつきにくいところもあるだろう)。しかし、徐々に耳が慣れてくると、テープの音がきちんと聴こえてくる(途中、僅かに音響のバランスが調整されたのではないかと感じた)。そして開始後だいぶ経ってから、この作品はテープ音楽が主体、つまり、器楽を伴うテープ作品なのだと気づく。物理的にはテープが遠景、器楽が近景のように見えるが、音楽としての主従は逆で、器楽のほうがいわばテープの写像、あるいは補遺とも言うべき位置付けなのであろう。もちろん、器楽がテープを真似るエコーとして機能するわけではなく、両者は互いに独立して進行する。同様の構成の作品としてシュトックハウゼンの「コンタクテ」が思い浮かぶけれど、かの作品における器楽は完全にオプショナルで、電子音響のみでの演奏も可能である。他方本作は、器楽がテープを補完する構造とみられる。そう捉えると、第3部がほぼテープのみであることも頷ける。なお、器楽の途中にしばしばあらわれる沈黙は、テープの"再生/停止"と対応して、演奏の"開始/終結"を示す、とみるのは邪推が過ぎようか。
アンサンブルは演奏が進むにつれて切れ味を増した。弦、管ともセクションのまとまり具合が小気味良い。中でも、クラリネットのミシェル•マレリ氏、チェロのベネディクト•ライトナー氏が特に印象に残った。
2作品とも全編が、この作曲家らしい極めて厳しい音で構成されている。クセナキスの音は、あたかも生木をがしがしと引き裂いていくような感触が本質だと思う。野々村禎彦氏•有馬純寿氏による解説動画で、この作家の原点は、第二次大戦時に参加したレジスタンス活動、その後の英軍との戦闘(その際に左目と、片耳の聴力を失う)にあったと聞き、なるほどと思った。今回は音の根幹の部分の再現が申し分なく、充実した演奏だった。(8月26日 サントリーホール•大ホール)