「ヤンキーと地元 」を読んで

私の体重が増えて明らかにオーバーウェイトになっているときに、面と向かって太り過ぎであると罵倒してくれた、信頼のおける人がいる。私とその女性は共に自分自身のフィジカルに対して毅然とした態度を持つことで共通の感覚を持っていると感じる。

私が「エスノグラフィ入門」という本を読んでいると、なぜその本を読んでいるのかと聞かれた。私は研究の参考資料として読んでいると言うと、その女性は私に「この本は面白い」と言って紹介をしてくれた。

これは社会学研究者である著者が、自ら暴走族の仲間になって沖縄の国道58号を暴走したり、解体屋で働く若者達と一緒に工事現場での仕事を行いながら、その中で観察を行ってきたエスノグラフィの書籍である。

臨場感と資料性の高さを感じることができ、全体の章立てとしては著者によるまとまった考察は書かれていない。しかし、参与観察対象となった人物との対話やインタビュー内容の合間合間に、断片的に考察が記述されている。

本書に記述された解体業、風俗業などのモノグラフの中で、私が特に目を止めたのは、「効率よりも上下関係」というセクションに書かれていた、著者によるものと思われる考察の部分だ。型枠解体という仕事の、時に暴力を伴う苛烈な現場を通して、人間が成長するということの本質を論じているようにも読める。

特定の先輩の独自のやり方を踏襲して働くことで、かわいがられるようになり、やがてその先輩のパシリへと落ち着く。その結果、先に見たような暴力の対象から外れていく。先輩みんなのパシリではなく、特定の先輩のパシリになれば、他の先輩からの暴行は減るし、兄貴分の先輩が求める作業を、阿吽の呼吸でこなせるようになる。(第二章 地元の建設会社 p.98)

この箇所で何が考察されているのか、それは「みんなのパシリ」「特定のパシリ」という分け方によって、仕事の習得段階を説明している点だ。「パシリ」は上下関係的な立場であったり、求められる仕事内容についての状態を言い表していると考えられる。しかしながら、「パシリは、何を知っているか」という観点で見るとどうだろうか。

みんなのパシリが「標準化された知識を持っている状態」だとすると、「固有の関係性のなかでの知識を持っている状態」が特定のパシリに該当すると考えた。

上記引用箇所が含まれる本書の第二章のまとめでは、このような関係性を「生活全体を貫」いているものだと指摘し、建設会社のような経営者あるいは資本家にとって都合の良いものでもあると述べられている。それは動物的な習得方法、身体で教え込む方法、現場主義的な方法、という言い方もできる。

現代社会の職場倫理という理非善悪をいったん別にするならば、暴走族での上下関係のなかでの生存戦略から、型枠解体現場の技能・実動の知識を獲得過程までに補助線が引かれ、対比されていることに読んでいてハッとする思いがした。

ところで、私が読んでいた「エスノグラフィ入門」には「<現場>を質的研究する」という副題がついている。この、<現場>について著者は別の論文の中でこのように述べている。

現場はリアリティとしての文化に還元できないし,それによって説明できない。つまり現場は文化から常にずれており,文化を超越している。      『「現場」のエスノグラフィー ― 人類学的方法論の社会的活用のための考察―』小田博志

「ヤンキーと地元」というエスノグラフィは、徹底して<現場>であることを選択した書籍と言える。ここに記述されたことが、著者によって恣意的に「沖縄の若者達によるリアリティとしての文化」に還元されることなく、徹頭徹尾、登場人物同士の対話であったり、インタビューの形で発信されている。

多角的な考察がされているわけではないが、読んでいるうちにダイアローグの中に読者を巻き込んでいる。固有の関係性が消えた「みんなの知ってるヤンキー」にはしない。この本を読んだ人が、<現場>のヤンキーの固有性を含めて知っていることになる。

文化を超越した(あるいは、文化からズレた)ヤンキーの<現場>を立ち上がらせたい、そのような意図を感じた。


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