多様にまなざす②龍太 映画『エゴイスト』

改めて見返す必要のないくらい、龍太はイケメンである。
宮沢氷魚の透明感が、年齢不詳感を出し、ゲイっぽさという味付けをあまりしていない、いや、いろいろと味付けをすること自体に価値を見出していない、人懐っこそうな微笑、態度、声の使い方…
そのままで全くもって透明なエロさを出せる、これはマジック。

前記事で浩輔の視点から浅はかに視てみたが、次は

②龍太の視点

で、観てみたいと思った。

なぜなら、売り専(男に体を売る男)をやっている、という、いかにもゲイ的な、アイコン的な存在であるから。
私は売ったことも買ったこともないけれど、20歳前後は、実はそんな職業に憧れていたりもした。
男の人と体の関係を持てる、というだけで幸せなんじゃないか、と思っていた。
大学に通いながら、真面目に勉強やサークル活動をしながら、どこかで同性のセックスに囚われていた。
悲しいかな、見た目もそこまで良いわけでなかったし、そもそも体を売る勇気は無かったから、やらずじまい。
ちょっと高収入なバイトだとおもってやってみれば良かったな。

その点、龍太は潔く飛び込んだ。
迷いなど、なかったのだ。
親のためと言いながら、セックスワーカーとして、いとも容易くお金を得たい、そのために自身の美貌を使えばいい、と判断した。

いや、これは私の妄想であり、どうして彼がセックスワーカーを選んだのかは描写されていないから、何とも言えない。

お店によるとは思うが、ノンケだけど男に体を売る男も、実はまあまあいたりする。
確かに、コンビニや飲食のバイトで時給いくら、というより、売り専の単価のほうが圧倒的に高いのはわかる。
バイ的な感じで、男と絡める人も、まあ、いるのではあろう。

ふと、不思議に思ったのは、龍太はガチガチのゲイだったのか?(その時点で)ということ。

なぜなら、それまで売り専(仕事)として割り切ってやってきたセックスワークだったのに、龍太は浩輔と出会って迷いが生じてしまい、浩輔とは付き合えない、と一旦距離を置く、という描写があったからだ。

ん?
これは恋心が故に距離を起きたいのか?
それとも、初めての恋心(=それまではゲイ的な感情は、体=性的な意味だけだったのに、心=精神的な意味で心が動いた)ゆえに、動揺してしまったのか?

そして、かわいらしさはありながらも、あまりゲイっぽさのない、さわやかながらに愛くるしい感じも、ゲイというより、ノンケでバイだけど(アセクシャルかもしれない)体を売ってる人だったら?と。

そう、そこで、ひとつのテーゼとして、龍太にとっての初めての壮大な『恋』が繰り広げられることになったのだ。
これが、大きく彼の運命の歯車を変えてしまった。
ガチガチのゲイっぽくない、バイ寄りのゲイっぽさを感じてしまった。

そして。

龍太は浩輔と、生き方について考えた。

お金の援助をしてもらいながらも、無闇矢鱈に体を投げ出すことを辞め、まとも(まともの定義は揺らぐが)な仕事をするようになった。
解体業?や皿洗い、など。
そもそも、龍太には、母を助ける以外に、こうなりたいという夢の話も出てこない。
刹那的に生きてきたが故、親父が浮気して消えたとかいうわけわからなさ故、『夢』みたいなものが欠如していたのかもしれない。
(浩輔はその分、多分に夢があった。東京でギラギラ輝いてやる、と)

原作では柔道整復師になりたいとかいう描写もあるらしいが。

彼が、ほんの一筋の光を浩輔に見いだした。

死ぬ前の描写として、仕事で疲れて、浩輔の家で寝ているシーンが抽出される。

これは、愛しさも気を許した関係性も内包するような描写だ。
きっと、この頃には激しいセックスもなくなっていたのだろう(実際描写されない)、ゲイによくありがちなセックスレスとはやや違う、本当にこころが満たされる時間だったことがわかる。
好きな人の家に行き、ただ寝る。
そして、そんな好きな人の出を持ち、ハンドクリームを塗るだけで幸せを感じる彼氏。

ゲイといえば、体だ。

これは、どのゲイに聞いてもそうだ、と言うに違いない。

そこから一歩、いやもっと先へ進めるかどうかは個人の裁量なのである。
体以上の関係になれるかどうか?は、もはや奇跡の領域だし、実際なったとて、また体の関係を他に求めたりもする愚かな生き物である。

そんな中、浩輔と龍太はしばらくの時間、体も心も、奇跡的にぴったりとくっついた。

さて。

ここまで来ておわかりの通り、龍太は、過労で没する。
いとも簡単に没するわけである。
睡眠不足だったのか?急性心筋梗塞?心不全?だったのか…
朝方に没しているところから心臓系の急変なような気がする。
これまた、母の『昔から身体が弱い』という発言以外、龍太の身体的な弱さはわからず、これまた、ならばもう少し病弱な描写もないと(心臓が悪いというような、息切れとか動機とか…)、とある考察では自殺では?!とも。そりゃその憶測も出ちゃうくらい前触れがわからなかったが。
(がしかし、浩輔の視座で語られる全編で、龍太の素性などわからないのである。浩輔にとって龍太の過去<現在なわけで)

てなわけで、龍太は死ぬ。

そして、私は、なぜ龍太に憧れるか、というと、この、儚い性癖(?)を運命の星として持った者として、志半ばでも、死ねたことにどこか、ルサンチマンを感じてしまうから、である。

ゲイ市場というのは、よっぽどでなければ(老け専とか)、若くてピチピチしてるとか、30代の油の乗っている時期とかが、売れる限界だということ。
マイノリティの中のマジョリティは、20代〜30代だということ。

年老いて輝いているロールモデルゲイ、というのは、少ない。
圧倒的に少ない。
時代背景としても、40代、50代のゲイのロールモデルの提示が少ない、のである(比率の問題だが)。

物心つくかつかないかの頃に、ゲイの人たちは性自認や性指向に、寝ても覚めても足りないくらいの時間を費やし疲弊したこともあるだろうし、なんなら希死念慮、自殺企図…そこまで辿り着いてしまったことがある人も少なからずいるだろう。
ああ、こんな十字架を背負って、老後とか言われる頃まで生きなきゃいけないのか…
ああ、どこまでこんな苦しみ悲しみを堪えなきゃいけないんだろうか…
そんな10代をなんとか乗り越え、バカみたいにお酒で絶望を呑み込んで、明るく楽しく振る舞うすべを開拓したけれど、どこか、生き辛さを感じてることには変わりなくて。

それは30代、40代、とか関係なく、心の中の楔(くさび)のようなもので、薄まっても関係なく、ふと舞い戻る、立ち返るところでもあり、龍太のように、きれいに、幸せなままで、死ねたら、いいのにな、て、どこかで思ってしまう。

いや、メンヘラ発動とかいうわけではない。

わかんないけど、思春期のメンヘラなんて、大人になったら関係ないわけで。
だけど、同性愛者はそのメンヘラの確率の条件が整いすぎてて、メンタルズタボロになり、どうにか取り繕って大人になるわけで。
振り切っちゃってオネエ全開フルスロットルになる方もみえたり、ね。

さて。

龍太は、人生の最期、本当に幸せだったわけですが。
愛する人とわかり合い分かち合い生きることの喜びを十二分にも感じていた(だから無理しすぎた)。
そんな中で、ポックリ死ぬことができた。

例えば逆説的に、仮に龍太が急逝せずこのまま生き延びていたら、ほんとに幸せは継続できたのか?は、わからない。
お互いに初々しさのある絡みを見ると、うまく行かず別れていたかも。

でも、強制的に終わることで、もう、冷凍保存できた。

ゲイ業界、見た目年齢が落ちてくると大変で(大人の渋みなど人気少数派)、そう、龍太くらいで死ねたらな…て、思ってしまうことも時々ある。
でも。
ずっと、精一杯生きて、浩輔に出会って幸せになれた龍太に、最大の賞賛と、尊敬を。

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なんだか、とりとめなくすみません。
龍ちゃんが、俺は大好きです。

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