171. Seitengrat/その夏と秋の間に①
1. 山道へ入る
山道をひとりで入る。前にも後ろにも人影はない。さっきまで同じバスに乗っていた人々は、既に先へ山道へ入り、それぞれの向かう地へ軽やかに進んでいった。藤原灯だけが取り残されたような形になってしまった。
「いいの、いいの、ゆっくりマイペースで行くの。彼がそうしなさいって、ゆっくり登っていらっしゃいって言っていたもん」
灯はそう自分に言い聞かせた。ゆっくり歩く言い訳でもするかのように。
山道は延々と続いている。ハイウェイバスと低公害車のマイクロバスを乗り継いで降りたその場所は東北の山奥で、峠と名のつく山道を50リットル入る大きなザックを背負い、アルパインポールを両手に握り、ダブルストックでゆっくりと歩を進める。彼がいつも教えてくれた歩き方とスピードを思い出した。「2~4METsぐらいのゆっくりとしたスピードでいいんだよ」と彼が耳元で囁いてくれた気がした。
2. METs
METs(メッツ)とは身体活動の強さを安静時の何倍に相当するかで表す単位で、座って安静にしている状態が1メッツ、普通歩行が3メッツに相当する。
彼はMETsを用いて、どのくらいの速度で登山したらよいか、いつも教えてくれる。ゆっくりゆっくりでいいんだよ、継続することが大事なんだと言われてきたので、今回の峠越えもその言葉を信じて、歩いていくことにした。
歩幅は狭く、上体のバランスを崩さないよう、慎重に一歩ずつ前へ前へ。足を挫いたり、捻ったり、つまづいたら、遭難の元。携帯電話はずっと圏外で、電波は届かない。クマは出るそうだし、アブやブヨ、ハチも飛んでいる。GORE-TEXの黒い帽子を被ってきたせいか、頭上をぐるくとハチのような虫が廻っている。色を間違えた…次回から黒は止めよう、そんな事を考えながら前進した。時折、虫除けスプレーをかけながら歩く。いつもはスマホで写真を撮りながら登っていくのだが今回は少なめにした。そこまで余裕がない。スマホへ気を取られている間に何が起こるかわからない。とにかくさっきからずっと緊張している。絶対に遭難しないように、気を緩めないように…。硬い表情で歩いていく。
3. 彼の待つテント場へ向かう
私は彼が昨日から滞在しているテント場へ向かっていた。夏休みを使って、彼は2泊3日、私は1泊2日で涼しい地域のキャンプ場で過ごすことにしていたからだ。
私より1日前に到着していた彼とは、テント場近くのヒュッテで待ち合わせをした。ゆっくり歩いて2~3時間と見積もっていた。夕方くらいに行くからね、と伝えてあるから逸れることはないだろう。バスを降りた時間だけは彼にLINEが出来たので伝わったはずだ。待っててね、ダーリン。必ず行くからね。
続く。