水玉消防団ヒストリー第11回 1980 年ハネムーンズ
取材・文◎吉岡洋美
協力◎地引雄一
「これは“声”で私がやれること」天鼓NYでの出会い
ライブハウスや学園祭のライブ出演によって、東京のパンクシーンで水玉消防団が頭角を表すようになった1980年。もともとメンバーたちが持っている恐れ知らずのエネルギーが楽曲、ステージでも体現されはじめたこの年。これだけでも充分パワーある話なのだが、実は’80年のトピックはまだまだこれだけに留まらない。
まず、1980年の春に戻って話を進めよう。天鼓が「しょっちゅう遊びに行くようになっていた」というNYを、何度目かに訪れたときのことだ。
天鼓「NYは特に音楽に触れたいとかそういうわけじゃなく、街自体がすごく面白くて、よく行ってたんですよ。で、2〜3回目かに遊びに行ったそのとき、街をたまたま歩いていたら、道で知り合いの日本人ミュージシャンの男の子にばったり会ったのね。彼が『面白いライブがあるんですよ、行きませんか?』って言うから、場所を教えてもらって見に行ったわけ。会場はライブハウスとかじゃなくて、バレエのダンススタジオのようなところ」
天鼓がたまたま行ったというそのライブは、当時NYで急進的な活動を繰り広げていたサックス・プレイヤーのジョン・ゾーンと、’78年にヘンリー・カウが解散し、イギリスからNYに移り住んで間もないギタリストのフレッド・フリスによるインプロヴィゼーションだった。
その頃、NYのダウンタウンでは彼らをはじめ、アントン・フィアー、ビル・ラズウェル、フレッド・マー、トム・コラ、エリオット・シャープ、クリスチャン・マークレー等々のジャンルレスな先鋭的アーティストたちが“即興”をキーにして音楽の枠を超えた実験的ライヴを起こし、NYノーウェイヴやフリージャズとも違う新たなシーンが刺激的に生まれていたときだった。天鼓が遭遇したのは、正にそのシーンの顔とも言える2人のリアルタイムのライブだった。そして、その時点で名前も知らなかったこの二人のライブに、天鼓は衝撃を受けることになる。
天鼓「それは今まで見たことのないライブだった。私も含めて観客たちは皆、バレエスタジオの床に座って固唾を呑んで何かが起こるのを待っている。ジョンはサックスのリードを外して、水が入ったコップの中でぶくぶく吹いて音を出すようなパフォーマンス。フレッドは今や“古典的”になってしまったけど、ギターをハケやヴァイオリンの弦で弾いたりする。二人ともいわゆる普通の楽器演奏なんか全くしない。これは音楽? アート? 誰もこれが何か説明できない。そして、会場中が皆、そのことにドキドキしている。これが音楽かどうかなんてわからないけれど、このわからなくて説明できないことこそ意味があった。だって説明できるものなんて過去なわけだから。『説明できない、これなんなの?』『自分の既成概念が壊れていく』と。新しいものが出てくるときは、簡単に言葉にできずに熱気だけが渦巻くのよね」
●Fred Frith & John Zorn Playing at NY(1989 Live)
ほどなくして「ニュー・ミュージック*と呼ばれたり、ヨーロッパではNYノイズと呼ばれるようになる」(天鼓)シーンの勃興期とも言えるライブに天鼓は遭遇したのである。
天鼓「新しいものって、いつも何かどん詰まりのあとに来る。そのどん詰まりから次に行くのがNYはやはり早い。“皆が当たり前のようにやっていることをその通りやっててもしょうがない”と思いはじめた人たちが、早い段階でその頃のNYにドッと出てきたんだよね。ジョン(・ゾーン)によると**、70年代中頃にフレッド(・フリス)がイギリスからやって来て、ジョンや近藤等則たちとNYで出会ったことが大きかった、と言うのね。ジャンルに関係なく、いろんな分野のミュージシャンたちが、“今までとは違う新しいものをつくりたい”と、NYで意気投合したわけですよ。しかも、あの街は音楽以外のアーティストもたくさんいるから、皆が新しいものに飢えてて敏感。ジョンたちが70年代後半から起こしていた即興ライブは、どんどんNYの先端の敏感な人たちに嗅ぎつけられて熱狂され、その空気がちょうど沸点に上がっていたときに、私はたまたまそこへ行き当たってしまった」
これまで、あくまでも自身の勘と確信に突き動かされて行動してきた天鼓は、自ら音楽を“演る”側に立ってしまったが、東京のバンドやミュージシャンに「特に影響を受けたわけじゃない」し、JORAでも企画されていた即興ライブに「皆、才能ある人たちとは思ったけれど、ピンとくるタイミングじゃなかったのか、自分と結びつけることはできなかった」。しかし、このときNYで遭遇したライブは、天鼓が初めて誰かがつくる音楽と自分を引き寄せた「出会い」と言えるものだった。
天鼓「そこで行われていたのは二人の音楽性だけではなくて、その人それぞれの肉体、人生がそこにあり、その人間が一人一人いる、というような。そこに立っているだけで『音楽』であるという一番究極な形だと思ったの。特にフレッドのパフォーマンスは奇想天外だった。ギターをこれまでにない奏法で弾くんだけど、リズムやメロディやノイズさえもがあっちこっちに飛びまわる。なのに、聴いてて楽しくなるんだから。『これは間違いなく音楽、新しい音楽だ』と感銘した。そして、そのとき、はっきりわかったのは『これは私がやれる音楽で、私の仕事だ』ということ。私は“声”を使ってこれをやる。そう決めた」
つまり、天鼓の今に至るヴォイス・インプロヴァイザーとしての始まりの瞬間であった。
天鼓「私は楽器は上手く弾けないけれど、声なら何とかなるというのは水玉で既にわかっていた。ということは、フレッドやジョンがやっていることを声、ヴォイスでやればいい。今までにつくられてきた音楽のやり方でやるんじゃなくて、身体自体を使ってヴォイスで即興をやる。まだ、それは誰もやっていないし面白い。『出会うべきものに出会った』と、はっきりそう思いましたね。あのとき、ジョンとフレッドのライブを見たのは本当に偶然と言えば偶然なんだけど、でも、それを見ても何も感じない人もいるわけですよね。だけど、私は正に自分のやりたいこと、やれることとマッチした。やりたいことがあってもなかなかやれなかったり、やれる能力があっても上手く使えないこともある。けれど、このときは『間違いなく私はやれるはずだし、やるべきだ』と思ったんです。まったく思い込みの強い人間だと思うけど、自分を動かしていくのはこういう激しい思い込みじゃない?」
ヴォイス即興デュオ ハネムーンズ
声で即興をやる——そう決めたら、矢のように行動に移すのが天鼓だ。曰くNYから「いてもたってもいられず、急いで日本に帰ってきた」。というのも、天鼓にはすでに明確なイメージがあった。それは、カムラとヴォイスをメインしたインプロヴィゼーションのデュオ・ユニットを組む、というアイデアだ。
天鼓「カムラは声もいいし、センスもある。それは水玉をやり始めた段階でわかっていたし、まだ誰もやっていない“声”の即興を、最初から一人でやろうとも思わなかった。ならば、カムラと一緒にやるのが一番面白い。即興って基本的にはセンスだけだから。やれるかやれないかということだけ。カムラとだったらやれる、彼女とだったら声と声で出来る。ただ単に楽器と声の組み合わせでやるより断然面白い」
実はカムラはカムラで「あの頃、短気だったのかな(笑)」と、前置きしつつ、当時、水玉消防団が活動の場を広げながら、度々気持ちの揺れも起きていたと言う。
カムラ「ライブする場が増えるほどに、死ぬほど練習しても本番でコケることがあって、そうなると“あんなに頑張ったのに”と、当時私は落ち込み方がひどかったの。そのフラストレーションで、実は天鼓に『もう、辞めたい』って話したこともあったんですよ。『二人でユニットをやろう』と天鼓が持ちかけてくれたのは、そんなタイミングでもあったの。天鼓とは水玉でヴォーカルのやりとりも成立していたし、音楽のレスポンスがとれる。彼女となら二人でできると思った」
そうして1980年春、「NYでライブを見た次の週」(天鼓)という速度感で、天鼓とカムラによるヴォイスを中心に据えた即興ユニット「ハネムーンズ」が結成される。ちなみに、そのスピードたるや新宿ロフトの水玉消防団の初ライブハウスから数ヶ月も経ていないときである。
ハネムーンズは、最初は水玉消防団のライブの中でヴォイスに楽器も交えるようなかたちで即興パフォーマンスを開始し、徐々にフリーミュージックの震源地だった吉祥寺マイナー等で実験的ライブを行うようになる。
天鼓「最初はヴォイスだけじゃなく、色んなことをやって試すのが楽しかったですよね。例えばベースやギターを楽器じゃなくて機械音に見立てて音を出したり、風船をいっぱい膨らませてバンバン割ったりギュウギュウ鳴らしたり。そこに即興で声を出す。カムラは一緒にやろうと言えば理屈抜きでパフォーマンスできる人だし、特に二人で何をやるかなんて事前に話し合ったりはしない。せいぜい、『最初はこの楽器を使いたい』『じゃあ、このオモチャも出しておこうか』ぐらい」
カムラ「実際やってみたら面白かったよね。ハネムーンズは決めごともなく、臆面もなく即興を行うユニットだから、二人とも思いつくことを何でもやっていった。ヴォイスのインプロにドラムマシーンを乗せたり、即興で二人がドラムを叩きながらヴォイスをやったり、楽器を順繰りに使って音を出したり。私の感覚的には、人とやる即興は音楽的言語として会話が出来るかどうかなんですよ。天鼓とはそれが起きうる。だから面白い」
天鼓「そうやって最初の一年ぐらいは色々工夫しながらやってたんだけど、結局のところは、やっぱり一番凄いのは二人で声だけでやって、それがある程度の完成度であれば楽器なんかなくてもいいんじゃないか、となっていきましたよね。まあ、もともと、そう思って始めたわけですけどね。即興をやりはじめたら、本当に声だけで充分なんですよ。声はそれぐらい色々なバリエーションや彩り、全てを含んでいる。楽器は決まった音しか出せないように整理されているわけだけど、声はいくらでも合間に音がある。しかも、私たちだけじゃなくて誰でも持っているもの。声って本当に面白くて凄いなあ、って思った」
ところで、以前も触れたように、JORAでも即興の先駆け的ワークショップVedda Music Workshopなどが行われていたものの、天鼓も「日本で即興、インプロというとジャズってことになっちゃう」と言うように、当時ジャンルレスな立ち位置で即興を行うミュージシャン自体少数で、観客などいないに等しい状態だった。インディーズでロック全体からすればマイナーだった水玉消防団でさえ、その表現は歌詞があり楽曲になっていたわけで、ライブハウスでも人を集めていた。「だけどね、その時代、ハネムーンズのやってたことは普通の人には“音楽”とは言えないものだったと思うよ」(天鼓)というくらい、型破りなものだったわけだ。
天鼓「NYではロックもジャズもクラシック出身の人も、ありとあらゆるジャンルの人たちが新しいことをやっていこう、となっていたけれど、当時の日本だと、即興、インプロはどうしてもジャズにくっついている。だから、結局私たちがやっていたのは一種の“実験音楽”という括りになるわけですよね、あの頃は。’90年前後になって大友(良英)くんたちの登場で、日本のノイズミュージシャンたちがヨーロッパで注目されはじめて、日本でも段々こうしたエクスペリメンタル系音楽の知名度が上がってきたと思うんだけど、私たちが始めたときは『これって何?』って、きょとんとしている人ばかり。ライブで私がいきなり絶叫したら『あれ大丈夫だったの?』と言われたりね(笑)」
カムラ「そうね、ジャズにくっついていない即興と言えば、あの頃日本では少なかった。もちろん、小杉武久さんとか先人もいるけど、Veddaの竹田賢一さんやその周辺、向井千恵さんたちや、吉祥寺マイナーでハネムーンズでやるようになって知り合ったミュージシャン、例えば白石民夫さんとか、JORAでもライヴした灰野(敬二)さん……もっといたのかもしれないけど、私の知る範囲ではそれぐらい?」
天鼓「もちろん、その時期Veddaのように色々と即興を始めていた人たちはいたわけで、でも、今のようにインターネットのない時代、なかなか何かがドッと浸透するようなことはなかった。でも、いずれにしてもハネムーンズ自体は私もイメージが明確だった分、そんなに人が来るものじゃないことは分かってたし、そんなことより、自分たちが自由に色々試せるのがいつも面白かったですよね」
「天国注射の昼」、スケルトン・クルーとのツアー
天鼓とカムラは水玉消防団と並行しながら、ジャンルやカテゴリー、音楽の法則にとらわれないハネムーンズの活動も活発に続けるようになる。時にはヴォイスだけでなく身体表現でコミカルな空気さえ起こし、何の制約もなく二人の存在が露わになるパフォーマンスは、「水玉ではなくてハネムーンズのファンです、って強調する人もいた」(天鼓)ほど、ここでも独自の存在感を示して活躍していく。これまでの水玉消防団の時系列を飛び越えてしまうが、特に’81年以降の活動は一層活発になり、ライブ共演者もジャンルに括れない鬼才のバンド、アーティストたちの名が並ぶ。例えば、元々は前衛アート出身の蔦木栄一と弟・俊二の兄弟による突出した個性の突然段ボール、パンクの現場で即興性高いライブを行うグンジョーガクレヨンでソリッドで自由度のあるプレイを行うギタリストの組原正、和太鼓の枠を超えた場の活動を試みていた林英哲、吉野大作&プロスティテュートのドラマー横山孝二、当時カリスマ的支持を誇っていた京都のEP-4の佐藤薫……等々。ちなみに林英哲とは彼のアルバムに1曲ゲスト参加もしている。
●林英哲+ハネムーンズ「バクオン」(林英哲アルバム「風の使者」より)
●突然段ボール「変なパーマネント」(1980)
●GUJOGACRAYON「Break」(1980)
●EP-4「Lingua Franca-1」(1983)
「ライブも水玉じゃ出演しないような、ハネムーンズならではのオファーも多かった」とカムラが言うように、その典型が’81年、’83年に彼女たちが出演した「天国注射の昼」***だろう。当時の前衛系地下アーティスト、バンドが集結し、日比谷野音で行われたライブシリーズだ。
カムラ「あの頃はアナーキーなバンドやギグがたくさんあったけど、『天国注射〜』も、まあ、よくもあんなメチャクチャなことをやる人たちが次から次へと出てくるよな、って感じだったよね。(町田)町蔵なんてほとんど前歯がない頃で、『カムラ久しぶり〜』と言われてもただただドン引きしたり(笑)。イベントは全体的にパフォーマンス性が高くてダダイズム、退廃的というか、とにかく誰もやったことがないことをやるという空気満載だった。普通に音楽だけやるバンドもいたけど、『あ、音楽だけ?』みたいな。却って違和感(笑)」
天鼓「きっちりした完成系の人は出演者として誰一人いなくて、自分たちもそういうところにいたわけだけど、変な連中は皆出たって感じで面白かったですよね。私たちがステージでやってるとき友部正人さんが『かっこいいな!』って、ちっちゃいカメラでステージで撮影しはじめて、“ステージの上で写真撮るなよ”って思いながらライブしたのはよく覚えてる(笑)。でも、このときは皆、半分そういうユルいノリで、今思っても、よくあんなメンツでイベントが出来たと思うよね。しかも日比谷野音で。ああいうフェスティバルって色んな人を見て意外な人に感銘を受けたりする。そういう場って重要なんだよね。だから私はフェスが好き」
●「天国注射の昼 Vol.4&5」(1983 8/21、9/17@日比谷野音)
さらに、’83年は天鼓がNYでヴォイス・インプロヴァイザーに開眼するきっかけになったフレッド・フリスがチェリストのトム・コラと「スケルトン・クルー」として来日し、ハネムーンズはツアーに帯同してパフォーマンスを行なうことにもなる。
カムラ「確か、竹田賢一さんがスケルトン・クルーを招聘したんですよ。移動用の車も竹田さんが用意して全国ツアーを組んで、『シートにまだ二人乗れるよ』って言うから、私たちも同乗してなりゆき上ライブもやらせてもらったんだよね」
天鼓「私はNYで感動したフレッドが来るならとにかく一緒にやりたいと、竹田くんに言ったような気がする。やっぱりNYの人たちとやるのは面白いんですよ。フレッドも凄いんだけど、トムのチェロが、また凄い。NYの人ってクラシック、ジャズ、ロックから現代音楽まで、色々な分野ごとに色々な楽器をやっている人がいて、そういう意味で変な縛りがない。トムのチェロにはそういった層の厚みを感じさせるものがあった」
カムラ「スケルトン・クルーは二人ともすごくいい人たちで、ずっと楽しかった記憶ばかり。彼らのライブも素晴らしくて、曲でもあり即興でもあり、どんな瞬間でも面白い。それでいてどこかアマチュアリズムを捨ててない。さすがだと思った」
●Skeleton Crew (1983 Live)
●Skeleton Crew「It’s Fine」(1984)
この年は他にもイギリスのサックス奏者、ロル・コックスヒル等、ハネムーンズは海外のインプロヴァイザーとの共演も多くなっていく。実はこの勢いのまま、天鼓は数年後、世界の即興音楽界に旋風を巻き起こすことになるのだが、一方、水玉消防団は彼女たちならではの方法で1stアルバム制作の話が持ち上がっていた。天鼓の世界進出の話の前に、次回は水玉消防団のデビューアルバムの経緯を記録する。
*日本のフォーク等から派生した「ニューミュージック」とは異なる。
**天鼓もカムラも、後にそれぞれジョン・ゾーンと交流を深め、ライブ共演も行うようになる。
***新宿ゴールデン街のバー“HAVANA MOON”と自販機雑誌『HEAVEN』が主催。’80年に行われた『HEAVEN』の創刊記念オールナイトイベント「天国注射の夜」を第一回に、HAVANA MOONの常連や吉祥寺マイナーなどに出演していた竹田賢一、工藤冬里、灰野敬二、白石民夫、舞踏家の宇野萬、コクシネルや、『HEAVEN』編集者だった山崎春美率いるTACO、じゃがたら、町田町蔵、ガーゼなど、ジャンルレスな地下アーティストたちが毎回一堂に会した。
●天鼓 1978年より女性のみのパンクロックバンド、水玉消防団で音楽活動を開始、80年代のニューウェイヴシーンで10年間活動を行う。同時に80年代初頭にNYの即興演奏に誘発され、声によるデュオの即興ユニット、ハネムーンズをカムラと結成、活動開始。その後、ソリストとして活動を続けるうち、86年頃よりヴォーカリストではなく「ヴォイス・パフォーマー」と称するようになる。「声を楽器に近づけるのではなく、より肉体に近づけるスタンス。あるいは声と肉体の関係を音楽のクリシェを介さずに見つめる視点。“彼女以前”と“以降”とでは、欧米における即興ヴォイスそのものの質が大きく変質した」(大友良英)。85年のメールス・ジャズ・フェス(ドイツ)以降、世界20カ国以上でのフェスティバルに招聘されている。これまでの主な共演者は、フレッド・フリス、ジョン・ゾーン、森郁恵、大友良英、内橋和久、一楽儀光、巻上公一、高橋悠治など。舞踏の白桃房ほかダンス、演劇グループとの共演も多い。水玉消防団以降のバンドとしては、ドラゴンブルー(with 大友良英、今堀恒雄 他)アヴァンギャリオン(with 内橋和久、吉田達也 他)などがある。15枚のアルバム(LP /CD)が日本・アメリカ・カナダ・スイス・フランス・香港などでリリースされている。演奏活動の他、各地で即興・ヴォイスや彫塑、空間ダイナミックスなどのワークショップを数多く行っている。
◆天鼓ライブ情報
「2023 Autumn duo tour 天ノ橋 地獄巡
〜天鼓&内橋和久デュオツアー」
[出演]天鼓(声)&内橋和久(ギター、ダクソフォン)
“はいはい、お待ちかねの最強超絶即興コンビ!
各地の皆様、よろしくっ“
9/19(火)
名古屋TOKUZO
スペシャルゲスト:小埜涼子(sax)
18:00open 19:00start
予約¥3,000 当日¥3,500
9/20(水)
京都UrBANGUILD
スペシャルゲスト:NO CON(山本精一・内橋和久)
19:00 open 19:30 start
予約¥3,000 当日¥3,500 + 1drink
9/21(木)
大阪environment Og
19:00 open 19:30 start
予約¥3,000 当日¥3,500 + 1drink
9/22(金)
秋葉原グッドマン
スペシャルゲスト:武田理沙/吉田達也/ナスノミツル
19:00 open 19:30 start
予約¥3,500 当日¥3,800 + 1drink
●カムラアツコ 80年代、日本初の女性パンクバンド「水玉消防団」で、ボーカリスト、ベーシストとして音楽活動開始。日本パンクシーンの一翼を担う。同時に天鼓との即興ボーカル・デュオ「ハネムーンズ」にて、ニューヨーク、モントリオール、ヨーロッパで公演、ジョン・ゾーンはじめニューヨーク・インプロバイザー等と共演。その後、英国に渡りポップグループ「フランクチキンズ」でホーキ・カズコとペアを組む。オーストラリアを始め、ニュージーランド、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、ソビエトなどツアー。90年代は、ロンドンで始まったレイブシーンでダンスミュージックの洗礼を受ける。2000年以降、「I am a Kamura」、「Setsubun bean unit」でフォーク、エスニック、ジャズ音楽の領域に挑戦。現在の自身のプロジェクト「Kamura Obscura」では、Melt, Socrates' Garden、Speleologyのアルバムをリリース。エレクトロニクス、サウンドスケープ、即興の渾然一体となったさらに実験的な新作「4AM Diary」を2021年末にリリース。同年秋、イギリスのポストパンクバンドNightingalesの満席完売全国ツアーをサポートする。2019年にはバーミンガムの映画祭Flat Pack Film Festival、2022年10月にはポルトガル・セトバルの映画祭Cinema Charlot, in Setubal, Portugal にて、日本の前衛映画の名作「狂った一頁」の弁士を務めた。
●水玉消防団 70年代末結成された女性5人によるロックバンド。1981年にクラウド・ファンディングでリリースした自主制作盤『乙女の祈りはダッダッダ!』は、発売数ヶ月で2千枚を売り上げ、東京ロッカーズをはじめとするDIYパンクシーンの一翼となリ、都内のライブハウスを中心に反原発や女の祭りなどの各地のフェスティバル、大学祭、九州から北海道までのツアー、京大西部講堂や内田裕也年末オールナイトなど多数ライブ出演する。80年代には、リザード、じゃがたら、スターリンなどや、女性バンドのゼルダ、ノンバンドなどとの共演も多く、85年にはセカンドアルバム『満天に赤い花びら』をフレッド・フリスとの共同プロデュースで制作。両アルバムは共に自身のレーベル筋肉美女より発売され、91年に2枚組のCDに。天鼓はNYの即興シーンに触発され、カムラとヴォイスデュオ「ハネムーンズ」結成。水玉の活動と並行して、主に即興が中心のライブ活動を展開。82年には竹田賢一と共同プロデュースによるアルバム『笑う神話』を発表。NYインプロバイザーとの共演も多く、ヨーロッパツアーなども行う。水玉消防団は89年までオリジナルメンバーで活動を続け、その後、カムラはロンドンで、天鼓はヨーロッパのフェスやNY、東京でバンドやユニット、ソロ活動などを続ける。
◆天鼓 Official Site
天鼓の公式サイト。ヴォイスパフォーマーとしての活動記録、水玉消防団を含むディスコグラフィーなど。
Kamura Obscura
カムラの現プロジェクト「Kamura Obscura」の公式サイト。現在の活動情報、水玉消防団を含むディスコグラフィー、動画など。
◆水玉消防団ヒストリー バックナンバー