見出し画像

『EATER on note』 遠藤ミチロウ vol.7

取材・文・写真◎地引雄一

遠藤ミチロウ 「ミチロウ」を語る

―インタビュー集成―

第7回 終わらない旅


  2011年の震災以降、プロジェクトFUKUSHIMA!を中心に活発な活動を続けていた遠藤ミチロウは、2014年2月に心膜炎を発症して入院する。一度は回復して活動を再開したものの再び体調を崩し、膠原病の診断を受けて長期の療養生活を余儀なくされる。
 入院と自宅療養を経て再び復帰した2015年6月に、病気との闘いと今後の活動に向けた心情を聞いた未発表のインタビューを、連載の最後にお届けします。

<志田名音頭ドドスコ>

 2015年3月から活動に復帰したミチロウは、プロジェクトFUKUSHIMA!から離れ、独自の立場で福島と向かい合う。この年の8月には、福島県いわき市の山間部で残留放射線量の高い志田名(しだみょう)地区で、志田名の除染に取り組む放射線衛生学者の木村真三博士と共に、盆踊り大会の開催を企画していた。

[NEWS] “福島に家族が帰ってくる” ホットスポット志田名に響く盆踊り

――― プロジェクトFUKUSHIMA!での立場っていうか、どんな感じで今後やってくの。
ミチロウ 俺はもう辞めた。代表も辞めたし、会員も辞めた。協力はするって形なんだけど。札幌(さっぽろ8月祭)はどうしても向こうの人が俺に出てくれないかって言ってきたんで、じゃあ札幌は出るってことで。
――― じゃあ個人として出来るところだけ関わるみたいな感じ。
ミチロウ そうだね。
 今年はね、志田名で盆踊り。それは公にしないで、村と近辺の人だけの盆踊りなんだけど。
    俺、『志田名音頭』っての作ったじゃない。3月11日に志田名でライブとお話と、木村(真三)先生とやって。その時に「盆踊りやりたいね」って話になったんだけど。8月15日は福島(プロジェクトFUKUSHIMA!納涼盆踊り)があるから9月の敬老の日あたりはどうかって話だったんだけど、お盆でないと孫達が帰ってこない、やっぱりお盆にやりたいってことで。14日がその年に死んだ人の新盆を皆でやるんだって。だから(8月)15日にっていう…

羊歯大明神 - 志田名音頭ドドスコ (2017)

――― 盆踊りって、実際やってみて本当に良かったなと思ったけど。
ミチロウ なんかね、古いものに程、実は新しいものがあるみたいな、気づかなかった何か、本来のね。盆踊りってやっぱり踊りじゃないですか。その踊るっていうことが、お祭りの本質に繋がってるみたいな、神様との。その辺の感覚…、それがあったから、皆がそれで非日常な世界を楽しんだと思うんだよ。
――― 二本松の浪江音楽祭(2012年、原発事故で避難した浪江町民の暮らす仮設住宅敷地で開催・vol.6を参照)で始めたものが、すごい実を結んだなあという感じが…。
ミチロウ そうね、あの時はショボーい盆踊りだったんだけど。
――― そうなんだ。
ミチロウ 最初は原田直之さん(浪江町出身の民謡歌手)が歌ってくれたから、その時はワーッとなったんだけど。その前に民謡大会ものど自慢の審査員もやって大変だから、後はテープ流してやったんだけど、さすがに原田さんが居なくなると人が減っちゃって。二~三十人だけがテープ流した音聞きながら踊ってるんだけど、それがなんかね、すごいこう胸キュン…胸を詰まされる(笑)。
 皆黙々と踊ってんだよね。楽しそうというより黙々と。それがなんかね、すごい切ないっていうか。「ああでも、これだなぁ」みたいなのがあって。そこから盆踊りみたいなのを、楽しいあれにできないかなあみたいな。
――― やっぱり生演奏生歌っていうのが大きいよね。
ミチロウ そうだね。志田名の時は俺とトシさん(石塚俊明)と(山本)久土で、この『新相馬盆唄』やったメンツでやるんですよ(これを機にこのメンバーで羊歯明神の名で活動)。だからジャンベとアコギだけ。あとめぐ留さんって伊藤多喜雄さん(民謡歌手)の娘。
――― 民謡の人?
ミチロウ 民謡も歌ってるし自分の歌も歌ってる、アピアでも歌ってるんだけど。要するに、歌姫なんだけど、彼女も歌ってくれる。実は多喜雄さんも来てくれるんですよ。それはまだ出してないんだけど。あそこで伊藤多喜雄さんがソーラン節歌うかも(笑)。
――― 去年、志田名で盆踊りやるっていう話があって、それ行くつもりでいたんだけど。
ミチロウ そう、あれが流れちゃって。僕の病気のせいで。
――― その時は、木村先生は「ミチロウさんがいないとやっても意味がないから、ミチロウさんが元気になったらやります」って言ってたんだけど、それが実現するわけかぁ。
ミチロウ すごい志田名で喜ばれて、「ラブソングも作ってくんねえかな」って言われて、「じゃあ今度、ジジイとババアのラブソング作りますよ」(笑)。
一切お金はかけない。交通費とかは出る人は自腹で。櫓も簡単な櫓なんだけど、除染してる建設会社が建ててくれて。あと屋台じゃないけど、食べ物とかは地元のおばちゃん達が出してみたいな。PAは郡山のOld Shep(ライブもやる珈琲店)が準備してくれて、オペレーターはアピア(目黒のアコースティック・ライブハウス)の伊東(哲男)さんが。
 基本的には殆どじいさんばあさんとあと孫。
――― 孫は殆どどっかに…
ミチロウ 避難してんだよ。お盆だけ帰ってくるから。
――― 最初の志田名音楽祭(2012)で大友(良英)君とピカが出たやつ、意外と子供が多かったけど。
ミチロウ もう避難していない。今50人位しかいなくて、今年の3月に行ってやった時は40人位集まって、全員じいさんばあさんばっかだよ。
――― 志田名では『志田名音頭ドドスコ』とか振り付けして踊るのかな。
ミチロウ 振り付けなんかないよ。ただ何にもないと、一体になったって感じがないから、例えば『相馬盆唄』歌ってる中で、かけ声みたいのあるじゃないですか。その時だけ皆手を上げるとか、そういう単純な、歌の中で一カ所だけ一緒になるところがあれば、あとは好きにやってみたいな感じにしようかなと。実際70~80のバアチャン達が踊ってくれるかどうか分かんないけどね。
――― かえって昔の人の方が、踊りが身に付いてるんじゃないかな。
ミチロウ どうだろねぇ。子供達が走り回ってて、おばちゃん達は踊んないで見てても、ある意味では民謡コンサートみたいになっても構わないの。こっそり『STOP JAP音頭』とかもやっちゃおうかなと思ってる(笑)。

2015年6月25日 三鷹

羊歯大明神 / STOP JAP音頭

ミュージシャンの遠藤ミチロウを追う!映画『SHIDAMYOJIN シダミョウジン』予告編

<膠原病院>


   復帰したミチロウは、4月に『膠原病院』と題した詩集を発表した。これは膠原病で入院した7月1日から8月19日まで、毎日一篇づつ書かれた49篇の詩をまとめたものだ。そこには膠原病という不治の病と向き合う、様々な思いが綴られている。
 
 
――― (2014年2月に)最初に入院したのは、膠原病とは関係なかったの?
ミチロウ 関係あるんだよね、実は。心膜炎って病気だったんだけど、心膜炎になるっていうのは、俺がなったSLE(全身性エリテマトーデス)って膠原病の、わりと特徴なんだよね。ところが心臓の方の医者から見ると、心膜炎がそのままSLEっていうふうにはいかないんだよね。血液検査して、俺リューマチだったから「リューマチと心膜炎は関係ないのか」って一生懸命聞いたんだけど、「イヤ関係ない」って医者は言い張るしさ。だからそうかって思ったんだけど。実は関係があったっていうかね。
――― 元はそっち(膠原病)の方で、その症状として心膜炎が出たんだ。
ミチロウ そうそう。だから退院してちょっと活動したらまたガーッと。両足が痺れちゃって。もう治んないんだよ、痺れは。
――― 今でも。
ミチロウ 今でも。普段出来ることが出来なくなると、なんかすごい世の中を見る目線変わりますよね。町歩いてても、杖付いてる年寄りとか、車椅子もそうなんだけど、動くこと自体が不便そうな人を見ると、その大変さってのがすごい分かって。やっぱりそうだよなあ、一般よりもさらに弱者っていうか、不都合な人達の気持ちってのはこうなのかぁみたいなの、すごい分かりますね。
――― 二回目に入院した時に、膠原病って初めて分かったんだ。
ミチロウ そうそう。それまでまず足が痺れてきたの。なんだろなあと思って。医者に行ったら「んー」とか言って。心臓の病気の薬の副作用で痺れってのはあったの。それでその薬をやめて、しばらく様子見たんだけど、二三週間全然変わんないから、違う原因かなって言って、いろいろ調べて。
結局やっぱり膠原病じゃないかっていうんで。それで東京医科歯科大学に入院してちゃんと調べようって言って、入院して調べたらやっぱり膠原病だってことになって。
 その時の看護師の婦長さんっていうのは、息子が熱狂的なスターリンファンみたい。
――― (笑)そうなの。
ミチロウ 全部知ってるんだよね。「あんた、こういうことやったんでしょう」とか言われて、「ウチの息子、あんたのことを神様みたいに思ってんのよ」とか言われて(笑)。
 リハビリじゃないけど、運動不足になるから、毎日一日二回、速歩を、病院の周りをグルグル回って柔軟体操やったりしてたら、そのたんびに先生に「がんばってるねぇ」とか言われて(笑)。
 ――― 入院してる時に書いた『膠原病院』って詩集、かなり身につまされるような。
ミチロウ (笑)年甲斐もなく、恥ずかしいラブソングじゃないけど、あれも書いちゃったしねぇ(笑)。でも病気のせいで、もう一回こう、彼女との人間関係が覚醒するみたいなとこがありますよ、やっぱり。
 猫も病気でさ。
――― あの(八月八日の)詩は猫のことなんだ。
ミチロウ 「らいくーん」って書いてあるのはウチの猫で。同じく病気で。
――― 何の病気?
ミチロウ もう歳だから、腎不全なんだけど。20才だからね。ずーっと、オレより先に病院にかかってて。オレも病気になったじゃない。彼女は毎日猫を病院に連れてって、次の日はオレの病院に行って、大変で。余計なんかね。
 オレが退院して一週間後に猫が死んじゃったの。待っててくれたって言うか。
――― うちも猫3匹姉妹で飼ってて、やっぱり20才まで生きて欲しかったんだけど、19才までにみんな死んじゃって。
ミチロウ こっちは22才だったんだよね、目標は。友達の猫が22まで生きたから。院長先生も「がんばれ22才」とか言ってたんだけど、結局だめだったよね。
――― あの本の詩は毎日一篇づつ書いてたの?
ミチロウ ほんとはね、1日二つ書いたのもあれば書かない日もあったんだけど、ちょうど数があの位だったんで、毎日書いたことにしよう、みたいな。
 一時はもう歌も歌えなくなるんじゃないかって感じがあったから、それでもやっぱり何か残すとしたらね、とりあえず詩を書かなきゃみたいな。だからあそこの詩集の半分以上は歌にするための詩なんですよね。歌詞。だから定型詩じゃないですか、けっこう。今まで出した詩集はもう既に歌になった歌詞でしょ。あれはまだ歌になってないから、いわゆる書き下ろしだよね。書き下ろしの詩ってのは初めて、今回。
(数種類の薬を取りだして飲み始める)
――― 薬飲まなきゃいけないんだ。ステロイド?
ミチロウ これとこれとこれがステロイドで。これはインシュリンで。こっちは肺炎を抑える薬で、これが免疫抑制剤。
――― 昔より治療法は進んでるみたいだね。
ミチロウ そうだね。最初はステロイドだけだったんだって、治療法は。最近は免疫抑制剤が半分で、あとの半分はステロイドみたいな。ステロイドの方が副作用がすごい強いんで。すごいもん。何もしないとあっという間に太っちゃう。顔もムーンフェイスって言ってパンパンに腫れるし。ここに脂肪が溜まる。お腹もだからすごい…。何にもしないと。
――― 太ったのかなと思ったらそんなでもなかったんで。
ミチロウ いや、ジムに通ってるから。今日もこれ終わってからジムだよ。ちゃんと体を動かさないとブクブク太っちゃう。
――― 体動かしてれば大丈夫なんだ。
ミチロウ そうそう、ある程度ね。しかも筋肉がダメになっちゃうから。だから、ルームランナーこけるから、つかまって歩くっていう。
 オレの場合は足が痺れてるのが、いろいろ動けない理由で。痺れてなかったらもうちょっと普通に、ライブも立ってできるんだけど、今立ってできないもんね。
 まだ入院してる時は薬の副作用が表面に出てないから、けっこうガリガリだったんですよ。ふだん50キロなんだけど、42キロ位になって。それがせいぜい45~6キロくらいまでになった段階で退院したんだけど。それからだね、急にボワって太りだしてきた。
 入院する前はひどかったよ。体が老人のようになってさ。お尻の肉もなくなって。見た目にすごい老人みたいな体になっちゃった。
――― 相当前からその病気は進んでたのかも知れないね。
ミチロウ なんかね。でも、体調が悪くなったのは2011年のフェスティバル(FUKUSHIMA!)やった後だよね。あれからガクってダメになって、それから戻って来なかったもん。よっぽどあの年はアレだったんだね、体にそうとうストレスが。
――― あれだけのことをやったらねぇ。しかも、今まで通りのツアーとか…
ミチロウ やったうえでのことだから。あれからすごい体調悪くなって、次の年はまた別の意味でいっぱいやったじゃないですか。あれがまた大変で(笑)。今回病気になって、ウチの彼女には「やっと福島から戻ってきた」みたいに言われて。

膠原病ってどんな病気?【自己免疫疾患・膠原病について】

2016年11月29日 新宿ロフト楽屋

 <『FUKUSHIMA』からの出発>


 
 闘病中に作られた曲も含まれた復帰後初のアルバム『FUKUSHIMA』が、詩集『膠原病院』と同時期にリリースされる。そこには多様なスタイルの「うた」が展開し、これからのミチロウの音楽世界の広がりを感じさせた。
 
 
――― 新しいCD『FUKUSHIMA』って出したけど…
ミチロウ ほんとはね、去年の春にレコーディングするはずだったんですよ。4月にGOKスタジオも予約してたんだけど、倒れちゃってダメになって、1年延びて。やっぱ復活するんだったらアルバムも出したいなぁみたいなのがあって。その1年の間にできた新しい曲も入れて、みたいな感じで。
震災の時から思ってたんだけど、活動としてプロジェクトFUKUSHIMA!をやるのとは別に、表現者として震災とか原発とか、震災以降の世の中の変わっていくことに関して、やっぱりちゃんと作品として出さなきゃなってのがあったのね。大友(良英)さんは大友さんでちゃんとやってるじゃないですか。和合(亮一・詩人)さんは最初から詩集出してる。俺何も出してないからさ。俺もちゃんと出さなきゃなってのがあって、作品として。
でも逆に3年間空けたから出せたっていうのも。その時の勢いで出しちゃうと、なんかやっぱ後で「あれ?」みたいなのがある(笑)。
――― 印象的だったのは、病気を経てミチロウ君個人と福島が重なっていく部分が出てきたってところが…。
ミチロウ そう!特にこの病気だからね。治らない病気っていう。しかも、ステロイドみたいな薬を飲まなきゃいけないってのと、原発を使わざるを得ないみたいなそれっていうのは、すごいダブってるように見えてねぇ。
 だから3年遅れてやってきた「一人震災」みたいな感じがあったもん。俺だけに来た震災かぁみたいな(笑)。
――― 実際に福島で聴いた曲もいくつかあるけど、新しいのもあるんだね。病気の間に作った曲も。
ミチロウ 一番最後の曲は去年の12月に作った。
――― 『冬のシャボン玉』。
ミチロウ あの、『ラジオ』ってドラマ(2013年3月放送)あったじゃないですか。女川(おながわ・宮城県女川町)の震災FM(女川さいがいFM)をモデルにしたドラマ。NHKでやったやつ。あの中の主人公の女子高校生、実在する女の子なんだけど、その子がスターリン・ファンで、俺が病気になる前も石巻のライブに見に来てくれてたんだけど。『冬のシャボン玉』が一番気に入っちゃったみたいで。カメラマンをやろうとしてて写真の勉強してんだけど、「この曲で写真集作りたい」とか言ってる。


冬のシャボン玉 / 遠藤ミチロウ

――― あれは印象的だものね。
ミチロウ あれはけっこう…ほんとにあれだよ(笑)、NHKの朝の連ドラ毎日見てたからさ。 倒れて、ずっと家に居て、あと病院で。あの時はズーッと毎日さぁ、朝の連ドラ見てたの。
――― 『花子とアン』…
ミチロウ 『花子とアン』だね、ちようど。あの曲(『にじいろ』)あったじゃない、彩香だっけ。あれけっこう聴いてて、こういう曲作りてえなあみたいになってて(笑)。朝の連ドラ向きの曲でも作ろうかみたいに思って作ったのがあの曲(笑)。ハハハ。
―――  あの中で一曲だけかけるって時があったら、きっと『冬のシャボン玉』になっちゃう。
ミチロウ あ、そう。それは嬉しいな(笑)。
――― 友川(カズキ)さんの曲(『ワルツ』)は、あれはライブでやってたよね。
ミチロウ あれは震災前から歌ってたんだけど、やっぱり入院した時にすごい身につまされるっていうか、あの歌…くるんだよねぇ。それとあとけっこう、仮設とかで歌った時に意外とじいちゃんばあちゃんに受けがいいんですよ、あの曲。人生を長くやってきた人にはすごい滲みる歌なんだろうなあ、みたいな。

遠藤ミチロウ ワルツ

――― あのアルバムの一曲一曲に、ここ数年の思いが全部注ぎ込まれてるよね。震災前後からの。
ミチロウ そうだよね。あと、一曲一曲が音楽のスタイルが違うっていうのもあるじゃないですか。あれけっこう全部挑戦してるんじゃないけど、例えば『オデッセイ』だったらラップを福島弁にしちゃうみたいなのがある。ブルースでしょ。ブルースやったことないし。ブルースでもちゃんといろいろ表現できるんだっていうのを。
 『新・新相馬盆唄』も、ちゃんと民謡に挑戦してみようかなと思って歌って。『STOP JAP』も音頭でしょ。パンクと民謡を合体させるじゃないけど(笑)。
あれはヘイトスピーチみたいな差別問題がワーッてなったじゃない。それに対して。それと震災の時に、福島差別的なのがあって、「差別ってこうやって生まれてくるんだ」みたいなのを目の当たりにしたから。差別問題に対するものを全部ひっくるめてあれを。

2013/8/10 新・相馬盆唄/遠藤ミチロウ+山口洋

――― ライブはいつから始めたの。
ミチロウ 今年の1月から、1月2月はアピアで一回だけやって、3月に福島の志田名と三カ所。で4月からだね、ツアーとして始まったの。沖縄、奄美行って、
――― すごいね、いきなり沖縄、奄美だもの。
ミチロウ ツアーするなら一番行きたいとこに先に行こうかなってのがあって。
 奄美大島は俺日本で一番好きなとこで、あそこはやっぱり福島と同じなんですよ。大和と琉球の狭間で、どっちでもあってどっちでもないみたいなとこで。福島もそうじゃないですか。東北って言うよりはすごい関東っぽいし、関東って言うよりは東北だし。その辺の曖昧な感じがすごい似てて。で真っ先に植民地になってるじゃないですか。その辺も似てる。ディープな東北が沖縄だとしたら、福島は奄美かなみたいな感じがする。すごい似てる。
――― 奄美っていうと、田中一村っていう画家が移住して…
ミチロウ あの人は栃木県なんですよ。島尾敏雄は福島でしょ。だからちょうどあの辺の中途半端なとこの人って、皆奄美に惹かれるのかなあって思って。
――― 田中一村にはすごく惹かれて…。
ミチロウ あほんと。いいですよぉ。田中一村大好き。一応日本画なんですよね、本来はね。日本画なんだけど、日本画通り越してアフリカの絵みたいな感じになっちゃってて。

奄美で独り絵を描き続けた画家「田中一村」ってどんな画家?《美術解説》

――― 今、ギターは大丈夫なの、戻ってきた?
ミチロウ いやぁー。やっぱりまだ、ここ(指の関節)腫れてるし。痛いって言うより、固ーいって言うかね。
――― 復帰の第一回をアピアで歌った時は…
ミチロウ あの時もピックが全然…、落ちちゃって。それからはもうピックの持ち方変えたの。それ慣れてくるまでちょっと時間かかったけど、最近やっと慣れてきて大丈夫になってきた。
 春一番(1971年に始まる大阪の野外フェス)の時は新しいバンドでやったんだよ。THE ENDっていう新しいバンド作って。それは俺ギター弾かなくてもいいバンド。いつギター弾けなくなるからわかんないから。
 そのTHE ENDはベースのいるドアーズ。ジ・エンドって言うくらいで。オープニングはドアーズの『ジ・エンド』日本語でカバーして。
――― メンバーは誰?
ミチロウ 西村雄介君ベース。ギターはナポレオン山岸で、ドラムが渋さ知らズの関根真理ちゃん。渋さではパーカッションとボーカルやってんだけど、ドラムが凄い良い。女の人のドラムっていいね。男と全然違う。力で行こうっていうドラムじゃないから、すごいなんかいいよ。もともとパーカッションだから、すごいパーカッシブな要素が入ってて。
 基本的にはそれぞれ好きにやってっていうバンドだから。ずーっとやりたかったんだよね。ドアーズのようなバンドを。やっと、やっとスターリン始めて30何年かかって。
――― 思ったよりも、体力がありそうで良かった。
ミチロウ 気持ち的にもすごい、ある意味で追い詰められてすっきりしたって言うか。「もう、しょうがねぇよな」みたいな。やれることをやるしかない、みたいな感じで。そこ無理すると、すぐダメになる。無理しない程度にやらないとっていうのがあって。
――― 今回沖縄へ行ったりして、そんなに体力的にきついってのはなかったんだ。
ミチロウ うーん。なんとか大丈夫だったけどね。でもやっぱり三連チャンとかできないね。二連チャンが限界、さすがに。
――― それでも他の人から考えたらすごい…。僕が一番びっくりしたのは、一昨年あたりに「最近体調が良くない」って話してて、「今までは次の日ライブだと『明日もライブか!』って嬉しくなったんだけど、最近はちょっと『明日もライブかぁ…』ってなる」って言ったでしょう。
ミチロウ そうそうそう。
――― 逆に「明日もライブだ」って張り切れるってのを、その年まで続けてきたって、その方が凄いなと思った。
ミチロウ でもそれはねぇ、あれだよ、俺ツアーが好きだから。旅が好きだから、平気なんだね。旅が苦手な人だったら多分無理だろうと思うけど。

2016年11月29日 THE END @新宿ロフト


 

<原点からのひとりプロジェクト>


 インタビューの最後に、あらためてミチロウにとっての歌について聞いてみた。
 
 
――― 今まで僕は、ロックって言う視点でずっと見てたんだけど、特に震災後、歌ってことがすごく大きな意味を持ってるような気がしてきて。
ミチロウ ロックなんてナンもないよ。ロックって言う言葉の持ってる意味はどっちかって言うとマイナスしかないよ。
――― あ、そうなんだ。
ミチロウ うん。ロックっていう言葉自体がもうすでに、何かを期待させるとか一切ないと思う。ほんとはないのに、期待だけ思わせるから。かなり否定的だよ、ロックっていう言葉に。
――― じゃあ今自分のやってることは「うた」って意識が…
ミチロウ もう、歌から。だから一曲一曲スタイルなんか全然違っても構わないみたいな。
――― 最初からそうなの。歌の意識って強かったの?
ミチロウ 強い、強い、強い。ある意味ではパンクっていうのも、俺の中では歌の中のひとつっていう感じでね。
――― パンク以前の弾き語りやってた頃からの「うた」…
ミチロウ 歌、歌、歌。単純にあとはアレだよね、日本語じゃなきゃ分かんないじゃないですか、歌ってる内容。極端な話。だからやっぱり日本語の歌っていうのはこだわりがある。もともと詩から来てるからね。詩を書くところから歌に行ったからどうしてもやっぱり、歌…。何を歌うかっていうのが一番でかいって言うか。
 あとはやっぱりあれだよね、声。
――― 声?
ミチロウ 声だよね。歌の大きな要素は歌詞と、もう一つは声だよね。
自分がいいなと思ったボーカリストの歌は、その人の書いた詩が面白い。やっぱり、俺が好きになったロックミュージシャン、ボーカリストの人って、だいたい良い詩書いてる。ルー・リードにしたって、ジム・モリスンにしたって、パティ・スミスにしたって、ジョン・ライドンにしたって、やっぱり良〜い詩を書くんだよね。あとシド・バレットとか。
――― 音楽そのものは?
ミチロウ いや、好みはあるよ。時代で今こういうのが好きだってそれは全部あるんだけど、自分の好みとして。ただ、ロックっていう言葉は、すでにパンクの時にさぁ、ジョン・ライドンなんか「もうロックは死んでるんだ」って言ったじゃないですか。俺も「そのとおり」ってあの頃から思ってたから。パンクはもうロックを終わらせる最後のアレだなあと思ってたから。
 パンク終わっちゃったら、あとは…グランジってのがあったけど、もうあとはロックっていうのは何の幻想もないだろうなって。
――― パンクがロックの最後の輝きだったような感じがするよね。
ミチロウ そうそう。そうだと思うよ。もうあれ以降は中心になれないよね。
――― 覚えてるかどうか分かんないけど、ちょうど二度目のスターリンを解散してソロで始めた頃、話しを聞く機会があって。その時にスターリン解散して次何をやろうかって悩んだけど、「やっぱり自分には歌しかないから」ってミチロウ君が言っててさ。それがすごい印象に残って。
ミチロウ そうそう。今度THE ENDを始めたのも、ある意味じゃ原点に帰るじゃないんだけど、要するにスターリンとかアコースティックっていうのは、俺が歌い出した原点なんだけど、ドアーズはロックに出会った原点だから。音楽に出会った…。だから、そこまで一回戻っちゃえみたいな感じがあるよね。

THE END - THE END (2017)

――― ていうことは、まだロックを捨ててはいないっていうか、嫌ってはいないってことだよね。
ミチロウ 嫌ってはいないよ、全然。嫌ってはいないんだけど、所謂世間的にロックって言われてる…、そういう期待されるようなモノはナンもないよっていう。
      ✩              ✩
ミチロウ プロジェクトFUKUSHIMA!も基本的に組織じゃない。組織の中でやってくってのはダメだったよね(笑)。自分はこれがいいんじゃないかなって思ったことを実現するのに、組織でやっていくとなると大変じゃないですか。もう、「ひとりプロジェクトをやります」って言って辞めたから。自分ができる範囲で、自分がやりたいことやる。

2016年11月26日 THE END @新宿ロフト

2015年.6 月25日 三鷹

 この年の8月15日、遠藤ミチロウは福島県いわき市志田名での盆踊り大会で、やぐらの上に立ち『志田名音頭』や『StopJap音頭』を熱唱した。そしてその後、ソロに加えTHE ENDと羊歯明神の二つのユニットを中心に、病を感じさせない精力的な活動を展開していく。さらに、自ら監督を務めた2本のドキュメンタリー映画『お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました』と『SHIDAMYOJIN』を制作。遠藤ミチロウの世界は新たな広がりをみせていった。
 しかし、2018年8月、膵臓癌によって入院、療養生活に入り、翌2019年4月25日、69年の生涯を閉じた。
 

遠藤ミチロウは終わらない


いいなと思ったら応援しよう!