
只今、ここ。2024,2,20 15:00pm
#1
天気の良い青空の下で読書しない方が良いな。と感じる。
それは、単に1日がより短くなるから。
退屈は、退屈で良い。
ドーパミンは冷凍されたまま。
──そういう感覚が確かにある。
晴れた日、日差しを浴びながら本を開くと、時間はいつも軽やかに流れていく。
ページをめくるたびに、まるで風に乗ってどこかへ消えてしまうような感覚。
読書という「行為」。
確かに進行しているのに、達成感が湧かない。
それは、脳内のドーパミンが冷凍保存されたまま、放出されないからだ。
一方、曇りの日や夜の読書は違う。
光が抑えられ、世界が閉じ、読んだものが身体に沈殿する。
考えたことがしっかりと脳に根を張り、ゆっくりとセロトニンが分泌される。
思考が輪郭を持ち、言葉が内側に定着する。
そういう読書は、満たされる。
青空の下では、あまりにも世界が広すぎる。
風がページを揺らし、太陽がまぶたを刺激し、背景の音が思考を切り離していく。
景色が脳を拡散させ、注意が散り、読書の余韻が結晶化しない。
そこでは、ドーパミンのスイッチが入りにくいのだ。
もし青空の下で本を読むなら。
「達成感」ではなく「漂う」ことを目的にする「べき」かもしれない。
でもどっちでも良い。
ただ、そう「思った」だけ。
詩や断片的なエッセイ、ただ眺めるだけの写真集。
そういうものなら、分泌されるのはドーパミンではなく、エンドルフィンのような強い幸福物質なのかもしれない。
高揚ではなく、穏やかな恍惚。
ゴールを求めず、ただ心地よい酩酊の中にある読書。
達成感が凍ったままなら、それはそれでいいのかもしれない。
解凍しないまま、ただ時間のなかに溶かしていくように。
#2
冷凍されたままの「保存」
「保存」が発明されたとき。
かつてそれは革命だった。
食べ物は腐らなくなり、道具は長持ちし、記憶は記録として残るようになった。
保存することで、ものごとは未来に運ばれ、「今」ではなく「後で」使えるものになった。
それは、生存のための知恵である。
だが、現代社会においての見方での「保存」は、目的ではなく、習慣になった。
保存≒習慣?
保存しなければ不安になる。
すぐには使わないものでも、とりあえずストックしておく。
未来のために、感情も、時間も、経験も、すべて保存する。
それらが凍りついたまま、解凍されるタイミングを失っていくことには、あまり気づかない。と大衆は気づかない。
手にある、スマホのカメラ。
日々の風景、食べたもの、友人との時間、何気ない瞬間。
シャッターを切ることで、それは「記録」として保存する。
だが、保存された写真は、どれほど見返されるだろう?
カメラに収めた瞬間、その光景を「見たつもり」になり、もう二度と振り返らないものになってしまうことがある。
記憶ではなく、データとして存在するだけ。
写真は残っているのに、その瞬間の温度は、冷凍されたままだ。
同時に生まれた、メッセージのやりとり。
言葉は、かつてはその場で交わされ、時間とともに消えていくものだ。
けれど、今はすべての会話がログとして残り、何かを伝えたつもりになれる。
「言った」ことが記録されることで、「伝わった」気になる。
けれど、アーカイブを遡ったとき、その言葉の温度はどうだろうか?
意味は冷凍保存され、当時の感情とは別のものになってしまっている。
知識も、またそうだ。
かつて、人は何かを知るために、時間をかけて経験していた。
しかし、現代では検索すればすぐに答えが出る。
情報は保存され、いつでも取り出せるようになった。
だが、知識を保存することと、知識を消化することは違う。
「分かった気になる」だけで、体験が追いつかないまま、知識は冷凍されていく。
保存は、もともとは生きるための手段だった。
しかし、現代では「生きることそのもの」が保存されるようになってしまったのかもしれない。
写真に記録し、メッセージを残し、情報をストックし、何もかもが「未来のため」にアーカイブされる。
けれど、アーカイブされたものは、そのまま取り出されることなく、凍ったままのものが増えていく。
本当に必要なのは、「解凍」することではないか?
撮った写真を見返し、そのときの空気を感じること。
言葉をその場で伝え、冷凍しない生の対話をすること。
知識を情報として持つのではなく、時間をかけて血肉にすること。
冷凍庫の中に、使われないままの食材が増えていくように。
僕らの時間もまた、保存されるだけで、消費されないままになってはいないだろうか。
保存することは悪いことではない。
けれど、凍らせたままにしないこと。
そして、保存しないまま消えていくものを、あえて受け入れること。
冷凍されたままのものが多すぎると、生きている実感が鈍くなる。
だから、凍らせるのではなく、今、この瞬間に食べるように生きること。
それが、保存という発明を超えていく道なのかもしれない。
僕の所に、光が差し掛かって、その言葉もまた解凍されていく。
いつの日か、誰かの元で解凍された/解凍されるであろうその「思い出」とともに。