71なんちゃって図像学(8) 末摘花の巻⑨ 若公達の奏楽の稽古
・ 左大臣邸での奏楽の稽古
夜になって、退出する左大臣に伴われて左大臣邸に向かいました。
朱雀院の行幸に向けて、大宮所生でない子息達も集まって、皆で語り合いながら舞や舞楽などの稽古をして過ごす日が続いていた頃です。
それほどでもない姫君への三日夜通いどころでもなかったのです。
左大臣邸には、楽器の音が盛大に響いています。
いつもの管絃の合奏とは違って、互いに競い合うように、大篳篥や尺八などを大音量で吹き上げます。
平素は熟練した専門の楽師が担当することになっている太鼓までを、高欄の所に転がして来させて叩いたりもして、奏楽に興じています。
(📖 太鼓をさへ 高欄のもとに まろばし寄せて 手づからうち鳴らし 遊びおはさうず)
舞楽は舞の音楽で、戸外で奏されることを前提としているので、音量の出しにくい絃楽器は使わず、舞い易いようにリズミカルに高らかに奏されます。
🌷🌷🌷『奏楽の稽古 』の場の目印の札を並べてみた ▼
・ 末摘花への無音
そんな多忙の中でも、源氏は、憎からず思う恋人の所には暇を盗んで出掛けていたのですが、末摘花の姫君にはすっかり無沙汰のまま秋が暮れていきます。
姫君の邸では男君の訪問のない失意の中で時が過ぎてゆきます。
……………
📌 朱雀院の行幸
『若紫の巻』に、
十月の朱雀院の行幸の準備に忙しくて北山への訪問も途絶えがちな頃に思い出して文を遣ると、僧都から、九月二十日に尼君が亡くなったという返信があった、
というところがあります。
その朱雀院の行幸のことです。
朱雀院の行幸は十月十余日。若紫の帰京はおそらく十月二十日頃です。
📌 一院
源氏物語の中には、過去の帝として、一院と先帝のお二方が登場します。
一院(いちのいん)は、十月に桐壺帝の行幸のある朱雀院にお住まいです。桐壺帝の父君または兄君と思われます。
先帝という方は既に崩御されたらしく、后腹にも拘わらず皇子は兵部卿宮等に留まり、皇女は藤壺宮として桐壺帝に入内されるも有力な後見がいないことが描かれています。桐壺帝との血縁はあまり近くなさそうです。
📌 太鼓
太鼓まで高欄のもとに転がして来させて
(📖 太鼓をさへ 高欄のもとに まろばし寄せて)
という状況がよくわかりません。
現代の雅楽演奏から源氏物語の奏楽を想像するしかないのですが。
朱雀院の行幸の稽古は、殿上での管絃の御遊びよりも、屋外での舞楽に向けているので、
打楽器と管楽器の大音量が強調されているのかもしれません。
『📖 太鼓をさへ 高欄のもとに まろばし寄せて 手づからうち鳴らし 遊びおはさうず』という描写には、リズムにノリノリで、打楽器を打ち鳴らして御機嫌な若公達が目に浮かぶようで楽しいです。
・上図の後方左右にある大きな太鼓は鼉太鼓(だだいこ)というそうで、持ち運べず転がすほどの大きなものと言えばこれかとも思うのですが。
転がすには外側の宝珠や火焔の飾りを外さなければならず、現代ではそれは足場を組んでクレーンを使うほどの仕事のようです。
リズムを楽しむとか打ち興じるとかいうよりは、合図のような機能の楽器かと思いますので、『手づからうち鳴らし 遊びおはさうず』というものでもない気がします。
打ち興じるというような描写に違和感があります。
・上図の前方中央にあるのは釣太鼓というそうです。
図(ズン)、百(ドウ)と、弱拍強拍の打ち分けもされるそうなので、打ち興じるというならこちらかとも思うのですが、太鼓部分を枠から外すなりして、転がさなくても充分家来に運ばせることが可能なサイズだという気がしてしまいます。
(📖 高欄のもと)が、高欄の下の地面だとすると、地面に置いて簀子の人達と合奏するには小さ過ぎる気もしてしまいますし、このサイズ感なら、簀子の上に並べて他の楽器との合奏が可能かと思います。
転がして運ぶという記述に違和感があります。
・鼉太鼓は別名火焔太鼓ともいうそうです。釣太鼓の上の飾りも火焔というそうです。
(落語の『火焔太鼓』で古道具屋の甚兵衛さんが担いで帰ったのは釣太鼓だったでしょうか。太鼓部分が浮いているし重そうですし、さぞ大変だったことでしょう)
左大臣邸での奏楽の稽古の場面、鼉太鼓と釣太鼓の間のサイズで、火焔の飾りが外し易くて、持ち運ぶには重すぎて、転がして運ぶような太鼓があったのでしょうか。
📌 鼉太鼓のサイズ感、分解、運搬
眞斗通つぐ美
📌 まとめ
・ 左大臣邸で奏楽の稽古
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