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【解説】彼のつきない感謝の因は、究極的なニヒリズム。

こんばんは。最近トマトが何故か食べたくないAoyです。トマト、嫌いじゃなかったんですが、何故か今になってあの俗に言うグチュグチュ感?グズグズ感?水々しさがうけつけません。身体が食べたくないというので、食べないようにしています。

[彼のつきない感謝の因は、究極的なニヒリズム。]

圧倒的困難と圧倒的苦渋を乗り越えさせた精神性の花.

故に彼はいつまでも感謝し続け、周囲の人から信用される。

集まった評価というものの示す矜持は感謝の証。

感謝し続けることができたなら、

周囲の人から信頼され続けるだろう。

感謝しよう、感謝しようと頭を払うように言い聞かせても、

感謝ができなかったその暁、

そこのところに働いてくる新たな自由、

はじめて来たる本当の愛。

感謝しよう→感謝できない→感謝

これが人の至る道.

遅かれ早かれそこに至ってしまったならば、

たとえどんな年の差でもその者たちは手を結べよう。

手を結んだとしたならば、

そのあとは花散る今宵の宴!

花散る無常と今宵の今、

その時だけのある日を摘む.

その積み重なった幸せの層が、

後の人々の文化となろう。

私たちだけが生きたもの。

それでいてあなたたちも生きるもの。

いつだって世界は素晴らしい!

うつ病のことを圧倒的困難・圧倒的苦渋と言っています。

希死念慮相当の悩みを抱えたことがある人には分かってもらえるかと思うのですが、

私は個人的に希死念慮は【耐えられないを耐える】ものだと思っています。

その意味から圧倒的困難、圧倒的苦渋と名付けています。

感謝しようとしても感謝ができない、ということは、これは俗にいうポジティブ信仰です。あるいはポジティブシンキングのことです。

つまり物事は悪い面と良い面、どちらかに二分化されていて、善と悪、ポジとネガ、この対立事項による世界観のことです。

しかしポジティブシンキングの本質はネガティブを打ち消し、【私はネガティブではないと言い聞かす】ことが本質だと、個人的に思っています。

故にそれはポジティブとは言いながら、内実は禁欲主義、であるとも考えられるでしょう。

故にうつの治癒はその善と悪、ポジとネガ、この二元論を脱け出すところにあるのであり、言い方を変えればポジとネガは両面として一つの個性を持つものだ、という認識です。

感謝ができなかったその暁、というのは心の底から絶望したことを指します。少し、先人の言葉を借ります。

精神科医の泉谷閑示先生は、うつの治癒においてその人が絶望しきることが大切、と言われます。無論これはうつを悪化させることが目的では断じてありません。その真の意味するところは、【何か外部の環境要因の不足によって、私の精神的不調が訪れているという認識が絶たれること】であるとも言えます。

絶望を人が語る時、そこにはまだ望みがあるというのです。人が本当に絶望をしたら、人は絶望を語らないという仕組みになると言います。

少し理解が超えているかもしれませんが、この望みを断つ、ということと、アダルトチルドレンや生きづらさを取り扱うカウンセラーの方が言う、自分の感情を味わう、ということが合致します。

つまりは自分の感情を大切にしていった先に、自分の問題事として悩みが腑に落ち、そこではじめて絶望する、のです。

その時こそが内面的な変革、あるいは変化であろうと言われます。

このような過程がうつの治癒にはあります。

そして絶望した時にはじめて、そこに真の感謝というものが起きてくる。これはひとえに人生の感慨と称されるもので、ダイナミックな生の実感でもあります。

感謝しよう(ポジティブシンキング)
感謝できない(絶望)
感謝(生の実感)

これが人の精神的な成熟過程であろう、ということです。

たとえどんな年の差でも、手を結べるだろう、

それはこの絶望し切った先の世界、それを泉谷先生は「人類の地下水脈」と言われます。歴史に残る作品、詩、哲学、文学、そのようなものはすべてこの深さから汲み上げられたものではないか、と指摘するのです。

泉谷先生は人間を「頭」と「心・身体」に分けて考えますが、うつの治癒においてこの「心・身体」の声を聞くということはこれまで言った通りです。

しかしここでもう一つ付け加えておくことは、この心と身体は、実は「底が抜けて」いて、その奥には自然が広がっている、と言われます。

この自然には人類の叡智とか、知恵とか、そういうものが内蔵されており、とにかく「頭」の数値的な判断よりも遥かに優れた洞察と信頼性を持っている、というのです。

つまりうつの治癒において心と身体の声を聴いた、人は、自然と繋がる感覚を得て、それが人類の普遍性に達する、つまりは地下水脈に心と身体が開かれているから、となります。

そうするとこの地下水脈に至った人は言葉は違えど「同じもの」を感じていますから、いくら年の差が離れていても、国境が違えど、手を結べるだろう、ということなのです。

花散る無常と今宵の今、ここに無常と今という言葉が出てきますが、

これらはこの境遇に至った人は少なからず生のダイナミックな感慨を持っているものですが、この生を考える時、それと密接に関わっているのが死となります。

昔の言葉でメメント・モリ(死を想え)という言葉がありますが、つまり無常と今は、死というものを意識しているからこそ起きるものだ、という認識なのです。

今宵の宴、ここに宴(うたげ)と出しましたが、この境地、つまり地下水脈に至った人は創造的遊戯(そうぞうてきゆうぎ)をすると言われます。これはニーチェの思想書、ツァラトゥストラからの泉谷先生の引用ですが、この精神は無垢であり、常に何かと戯れている、という特質があります。

つまりはうつが治った後は「遊び」が訪れ、これが俗にいう【熱中】と言われるものです。つまりは宴(うたげ)なのです。

私たちだけが生きたもの。
それでいてあなたたちも生きるもの。

これは、うつの治癒において、そのクライアントの方の感性を大切にする過程を取ります。これも心と身体の声を聞くことです。そうすると感性が鋭くなっていくことが認められる。

先ほど言ったポジティブシンキングでは、内実は禁欲ですから、死にたいと思うことをやめよ!ということです。これではどうも立ち行かない。

なのでカウンセラーはその死にたいという気持ちに一度共感し、そこからそれに思うに至った背景をゆっくりと丁寧に選び分けていきます。

その過程を経る中で、クライアントは「ああ生きづらいって思ってよかったんだ」「自分の感性が【まとも】だったからこそ、ノイローゼが起きていたんだ」「この病気は私が私として生きたい、ということの現れだったんだね」ということに気がついていきます。

これこそが感性を鋭くすることに他なりません。そうしていきますとあるところで大きな地点に脱け出すところがあります。

それが先ほどの絶望の瞬間であり、感情を味わい尽くした瞬間であり、心と身体が主権を取り戻した瞬間であり、感性が「完成した」瞬間であり、地下水脈に開かれた瞬間であり、「頭」と「心・身体」が繋がった瞬間、でもあります。

そうするとこうも言い換えれます。

主観を育てていくことで、感性が完成し、地下水脈という大きな自然に至って、信頼に足りる人間認識が成り立つ、ということです。

つまりはポジティブシンキングの逆、これをネガティブシンキングとは言いませんが、自己受容をしていくということです。そうすると主観が客観を凌駕します。

主観が客観を凌駕する、ということですが、この客観(きゃっかん)これこそが神経症の根源なのです。客観というのは「人様から見られてどう思われるか」「こうした方がよさそうだから」「こうあるべき」という、すべて自ら内発しない思考です。

泉谷先生はこれを客観はそれぞれの主観を満たす最大公約数的なものに過ぎず、実に神経症的なものです、と言います。

分かりやすく言えば究極的に他人の期待を満たす生き方のみをした場合、得られるのはどの人からも文句を言われない、ということではあるが、決して誰からも信頼を獲ることはできない、という少々手厳しい内容なのです。

しかし絶望することはありません。

つまりは【自分】をしっかり持つ人こそ、【他者】からも受容される、という仕組みなのです。つまりは【自分】の感受性を、ポジティブシンキング的な禁欲思考で排他しなくてもよい、ということなのです。

そうして主観に磨きがかかると、あるところで主観が完成し、客観を凌駕します。これを私たちだけが生きるが(主観に徹した)、あなたたちも生きるもの(客観がそこに内在している、つまりは取り込まれた)ということなのです。

つまりはこの詩自体が、一つの地下水脈から汲み上げたものになります。

私の拙い表現ではありますが、そのような意味合いを込めて作りました。

といっても、この解説を出すまでに実に7ヶ月の期間を要しました。この間にこの詩の意味が繊細化され、私の心情がより明確化されたということです。

これを書けていることに感謝します。ずっと疑問であられた方、長い期間を要しました。変わらず絶えぬ友好をくれるフォロワーの方に感謝いたします。

【いつだって世界は素晴らしい!】

うつからの新生を第二の誕生、とも言われます。これも先に述べましたような生のダイナミックな心情、躍動する感情、情緒、このようなものと繋がっている心です。

この第二の誕生からは創造的遊戯が行われていくので、【いつだって世界は素晴らしい】のです。

お釈迦様が45年間の布教人生の最後、ついに涅槃に至ろうとしていた時に、「この人生は素晴らしい」と言ったと書物では拝見しますが、そのお釈迦様の教えが【人生苦なり】つまり【絶望】から始まったことを思うと、その仏教の奥深さと含蓄があるものを感じます。

豊かな人生を切り開けるよう、私はあなたを応援しています。

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