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欲は生きる力 うつについて
うつは一面として自分の欲求、平易に言えば感情面がおざなりにされたことによって起きるとも言われます。私個人の体験ではありますが、明らかに自分の「生きたい」「生きて喜びを感じたい」「好きなものを大事にしたい」そのような心が封印される体験がありました。
近年高度経済成長を経てから、物質の豊穣によってそれまでは皆「生きるために」働いていたのが、最近は「生きていけるようになってしまった」ため、実存的な、つまるところ何のために生きるのか、とか、生き甲斐って何なのだろう、そのような「静かな悩み」が起きてきたと尊敬する精神科医の方は触れています。
そのような悩みを抱えた一個人の人が、様々な理由で休職や不登校になっていると聞きます。
児童精神科医の故・佐々木正美(ささきまさみ)先生は、母性(ぼせい)というものと父性(ふせい)というものに言及されているのですが、平易に言いますと母性は無条件の愛、父性は条件付きの愛、と説明されます。
実際にはお父さんでも愛が大きい方もいると思いますし、お母さんでも厳しい方もいると思います。しかし一般的にはお母さんが子どもを抱きしめて、そしてお父さんが子どもを躾ける、というような、役割分担から母性と父性が語られています。
そして佐々木正美先生はとても重要なことに触れているのですが、家庭の一歩外に出るとすべては父性原理なのだ、と言われているのです。
つまり社会効率、ノルマ達成、成績、点数、勉強しなさい、早く登校しなさい、スキルアップしなさい、このような諸々の社会的通念は父性(ふせい)条件付きの愛だ、と述べられています。
このようなところから家庭では母性(ぼせい)が大切にされるべきであり、家庭だけは憩いの場であることが、本来望ましい家族構成となります。
しかし近年顕著に現れてきた機能不全の問題などにより、家庭ですら愛をもらえない、という問題も起きてきました。
精神科医の泉谷閑示(いずみやかんじ)先生は、人は「頭(あたま)」と「心・身体(こころ・からだ)」の構図でできていると言います。
「頭(あたま)」というのは理性の代表でして、「こうあるべき」「〜すべし」というような〜すべきという発語をするものだ、と言われます。
一方で「心・身体(こころ・からだ)」は、心と身体は繋がっており、「〜したい」「やりたい」というような感情的な発語をするものだ、と言われます。
あえて平易に言えば頭は理性の代表で、思考の産物、心・身体は自然的な欲求、つまりは感情的なものだと説明されます。
そしてうつや適応障害で悩まれる方の心の中では、この「〜すべき」が「〜したい」に対して蓋をしている状態、つまり頭(あたま)が心・身体(こころ・からだ)に対して圧政を敷いている状態だ、と説明されます。
故に休職やうつなどの行き詰まりにおいて大切にされるのは休むこと、そして自分の感情を大切にすること、などと言われますが、それは理性信仰、いわゆる社会的規範や社会効率、理不尽や機能不全によって受けた歪み、つまりは頭(あたま)の「もっとちゃんとしなければ」「もっと立派であるべき」という自責思考と距離を取り、またそれらを融和していくためである、と説明されます。
また心・身体(こころ・からだ)は常に感情として働いていますので、つまりは本来的に生きたい欲求はある、という認識になります。
少し難しい表現になっていますが、極めて平易に言うならば、生きたいを阻害されたから死にたいになっている、ということになります。
故にうつの治癒でやることはもっぱら自分の心の声に耳を傾け、本来持っていた価値観や幼少の頃から見ていた好きなものや、あるいはふとした時に感じる季節感、またそこから生まれてくる感慨、なぜかは分からないが見てしまう音楽、などもっぱら本人の欲求を大切にすることが主眼とされます。
故に私が参考にしたうつとの向き合い方は、社会復帰やメンタル強化プログラム、何か一定条件まで自分のレベルを高めるというような、あえて言えば強化型(きょうかがた)の治療方法とは対をなすものです。
そもそもとしうつや精神障害というものは、社会から受けた圧、つまりは理不尽によって起きてくることが往々として当てはまるので、クライアントの方は「もう頑張れない...」となっているわけです。
そこにいくら「メンタルを鍛えてみろ」「計画的に復帰していこう」「頑張ろう」と言っても、その内実はさらにクライアントの方の内面的な圧を強めるだけになります。
故に私が参考にしたうつとの向き合い方は、そのような足し算的な発想ではなく、引き算的な発想です。
「何もできない」となっているならば、何もできなくていい。また、逆に言えばその方ができるものは何かと言ったら、その方の好きなもの、大切にしているもの、その方の自然な欲求に根差したもの、つまりは「やりたいこと」でしかありません。
あまりに症状が急性期の場合は、そのようなことも感じることができないほど、生きる気力が枯渇し、希死念慮が発生することも考えられますが、そのような希死念慮が発生するメカニズムも、そのような「お前はこうあるべき」「お前はダメな存在だ」「もっと強くならなければ」というような頭(あたま)由来の思考です。
私が学んでいる浄土真宗では、難行道(なんぎょうどう)と易行道(いぎょうどう)という概念があるのですが、簡単に説明しますと難行道というのは「行うのが難しい道」と書かれますように、いわゆる修行や、自分に対して"禁欲"を課すものです。
しかし浄土真宗ではもう一つ易行道(いぎょうどう)というものが説かれ、それは「行うのが易しい道」と書かれますように、そこには一切自分を何か足し算的思考によって強化するような条件がありません。
私は専門的に浄土真宗を学んでいますが、これはうつに対しても有益な考え方に思えてならないのです。
つまりは何か禁欲的な、「もっと強くならなければ」「お前はこうあるべき」「社会復帰のために実力をつける」というような発想はいらず、
「自分がしたいものは何か」「好きなものを大切にしたい」「ゆっくり休んでいたい」というような感情的なものこそが大切だったのです。
行き詰まりやうつは自分と対話する契機であり、悩むことは何も悪いことではないと先人方は説明されるのですが、それはそのように一度社会的な倒錯や理不尽によって萎えてしまった自分の感性を、もう一度復活させるという、人間として大切な、実に大切な側面があるからなんだ、と言われます。
難しい道では条件が課せられますが、
易しい道ではただ自分の感情を大切にするだけです。
休職、不登校、もちろん金銭的な生活苦などを考慮すれば休めない人もいるかもしれませんが、休んだり不登校になったりすることは、自分の大切な欲求が萎えざるを得なかった社会と一旦距離を取り、そしてまた自分のかねてより持っていた大切な価値観を思い出し、自分を大切にしていく行動を取っていくという意味では、行き詰まりも不登校も何ら悪いものではないというのが、私が尊敬する先人方が一貫して言われていることです。
昔から見ていたアニメ、なぜか心に残っているシーン、忘れてはいたが自分の身近にあるアイテムグッズ、ふとした季節感からくる感慨、連休中の安堵感、なぜか惹かれる推し、
そのようなものこそ自分の欲求を表しているものだとも言えます。
社会的な効率や、成績、点数、地位や名誉、ノルマ、これらは加速度的に膨張する仕組みを持っていて、そこに際限がありません。もちろんそれを追って生き生きとする人ならいいのですが、こと行き詰まりやうつで悩まれる方はそこについていけなくなった状態。そのような方に対して「社会復帰」「メンタル強化」を話しても、結果として本人の感情面の抑圧を助長させるものとなってしまいます。
もっぱら推奨されるのは何か心を鍛える、のではなくて、あなたがあなたとして生きる大切な価値観を守ることだけ、それを見つけるための行き詰まりならば、大いにゆっくり休めばいい、ということになります。
現に精神科や時として心理師の方ですら、社会復帰やリワークを掲げていることもありますが、私の認識としては行き詰まりは落ちこぼれたからなるものではなく、その人が望ましいライフスタイルに変化するために自らの人生を進んだからこそ起きたもの、だと思っています。
そういう意味ではリワークや社会復帰という言葉自体がどうも馴染めないものがあり、泉谷閑示(いずみやかんじ)先生の言葉を借りればリボーン「生まれ直し」という言葉が適切だと思います。
落ちこぼれて、何か条件が足りなくて、社会から堕落したのではない。
自分には合わないものを知って、条件を見定めて、進んだから行き詰まったのだというのが私の見解であり、尊敬する先人方が言うことです。
そういう意味では人の成熟や、真の内的変化という意味では、行き詰まりの方が最も生産的な活動をされようとしている、と私は本気で思います。
何か条件はいらず、あなたの欲求を大切にするだけです。
これはそれぞれの方が向き合うものですから、具体的方法論を出した瞬間、よからぬ規定にはなってしまいますが、例えば、
好きな音楽、好きなアーティスト、好きな動画、推し、美味しいご飯、素敵なカフェ・レストラン、四季の移ろい、心に残っているワンシーン(フィクション・リアル双方で)、好きなゲーム、ほっと安心するような記事、社会効率に該当しない一見役に立たないが自分にとっては大切なアイテム、あるいは精神的な面では、社会への疑問点、正当な労力を受け取ってもらえなかった悲しさ、マイノリティ的な視点の洞察、
このようなものを契機として、あなたの欲を大切にしてほしいのです。そしてまた、これは欲を大切にすることですから、何もしたくない時は何もしたくないでいいのです。
どこにも行きたくない・何もしたくない
それも立派な欲です。
かつて私は生産性と向き合いたいと話したことがありますが、それは一度このような欲を取り返したからこそ、はじめて自発的に行動できるようになり、そもそもとしてブログはどこかから強制されてやるものではないので、そういう意味で自発的にする活動という意味で、真の生産性というものに向き合いたい、と発言しました。
生産性、社会効率によって行き詰まった一個人の人間が、自分のやりたいことやしたいことをゆっくり探す期間を経て、もう一度社会で自分を活かしたいと思う。そしてその欲求は「〜すべき」とは一線を画するもので、自分の「〜したい」に根差したものとなる。そこではじめて主体性を持って生きていける。
皮肉なことに生産性についていけなくなった人が最も生産性があった、というようなありえない言説も、一連の変化を経たものとしてはそれが整合性のある言葉として認められるのです。
もちろん薬物療法やカウンセリングを断てと言っているわけではありません。様々な方の援助を受けて、心の元気を取り返せることに越したことはありません。
しかし現代社会で言われる「うつは落ちこぼれだ」「あいつは終わった」というような実に浅い社会的通念から生まれてくるような言葉に、自身の心が右往左往してしまう時は、そのような生産性の皮肉を少し思い出すだけでも、自分を責めることは少なくなるかと思います。
長くはなってしまいましたが、このようなことに触れながら、行き詰まりを経験した一個人として情報発信していきたいと思っています。
行き詰まりや悩むことが、生来的に生きる意味を問う人間存在としては何ら変なものではなく、またその意味と連動する感情、つまりは欲求を大切にしてほしく思います。
またかねてより参考にしているHSP専門カウンセラーの武田友紀(たけだゆき)先生は、「思いっきり欲を出していこう!」という発言をされていますが、人間として生まれたからには大きな欲を持って生きていいと思います。
また世間的な犯罪、殺人事件、あるいはハラスメント問題に通底するのは、本人の自愛不全(じあいふぜん)つまりは簡単に言えば本人が望ましく生きることができていない、つまり欲が阻害されている、故に他者に恨みを持つ、という構造になるので、
もし一人一人が本当にやりたいことをできていたら、もし一人一人が自分のやりたいことをできていたら、人を殺すという思案も発生しないように思います。
つまり殺人が起きるのは殺人されているから、という面が一面としてありますので、やはりそれらの根本解決としては一人一人が欲を大切にして、自分の人生を実りあるものにすることが大切なのではないでしょうか。
少し暗いテーマになってしまいましたが、ここは避けては通れないところだと思います。
難行道(なんぎょうどう)「行うのが難しい道」では、禁欲主義となり、我慢を強いるわけです。我慢をすれば恨みが起きます。「誰のために働いてやってると思ってるんだ」という言葉も起きるでしょう。
しかし易行道(いぎょうどう)「行うのが易しい道」であれば、人それぞれが自分の欲求を大切にすればいいわけです。そういう意味では真の相互理解とは、あなたにはあなたの欲があり、私にも私の欲がある、それはそれぞれが素晴らしい、というものになると思います。
このようなことからも、自分が好きなものというのは、一切排他(はいた)しなくていいと思うのです。
少し長くなってしまいましたので、また別の記事で触れていけたらいいなと思います。
スタンドエフエムではもう少し柔らかい打ち解けた態度で話しているのですが、今日は少し真面目にお話ししました。
強制するものではないですが、音声配信ではより深くうつについて触れていきたいというテーマのもと発信しています。何か参考になれば有り難く思います。
最後に自己紹介をしますと私は22歳で大学一年生をしていて、長らく社会不適応に悩みました。およそ10年くらいの行き詰まりがあったと思います。様々の方の援助を経てうつを治癒することができ、ある時からこれを伝えていきたい、と思って発信している次第です。
最もな望みを言うならば、このうつの治癒を経たところからたくさんの人がそれぞれの人生を歩んでいくことが望ましいと思っているのですが、私が書いている詩もその一端である、というようなものです。
また変わらず発信していきたく思います。
ここまで見てくださり、ありがとうございました。