エヴァンゲリオン総括①〜旧シリーズにおける社会現象化と独自性、および旧劇ラスト解説〜
シンエヴァことシン・エヴァンゲリオン劇場版が公開されてもう3年経った。時が経つのは早いものだ。
シンエヴァ公開時はコロナ禍もあり前作からなんと約10年、ファンには待ちに待ったシリーズ最終作だった。特に旧劇場版が苦い思い出になってるファンにとっては尚更。
これにてエヴァンゲリオンシリーズ自体も終わるとのことで、観客の期待も高まっていた。
ファンの間では比較的ハッピーエンドで終わったので評価は高いが、初日に見終わって映画館が明るくなると、
「2度と見るか」
「レビューの評価高すぎるだろ」
というおそらくは一般客の不満の声もそれなりに聞こえた。
実は僕自身もシンエヴァは楽しめた部分とイマイチな部分が両方ある作品で、モヤモヤした感じがある。しかしそれを的確に語ってくれたレビューは目にしていない。
そして今更エヴァを真面目に語る人はもはやいないので、逆に語ってみようと思った。
そしてシンエヴァを語るにはまずエヴァシリーズ全体を語る必要が実はあり、本記事では主に旧シリーズについて語ろうと思う。
旧劇場版の頃のエヴァ現象解説とテーマについて
TVシリーズの制作スタイルとテーマ
旧エヴァの熱狂は旧劇時にはかなり過熱していた。
当時のアニメにしては珍しいシリアスな心理描写、謎が謎を呼ぶストーリー、そして迫力の巨大ロボ(人造人間)と個性的な使徒(怪物)との戦闘シーン。
(聖書をモチーフにしたストーリーなのだが、難解と言うよりは解かせるつもりもそもそもなかったのだけど、それは②以降で語ろうと思う)
その数々の斬新さから口コミで徐々に話題となり、人気が高まっていった。
そして関連グッズは飛ぶように売れ、フィギュア、プラモ、アニメ本、サントラ等
「ヲタクが欲しがるモノ全てに応える作品」
と言われたくらいだった。当時はその経済効果も含めて注目され、社会学者も大真面目にこの作品を取り上げ、アニメファンだけのムーブメントに収まらず社会現象化していたのだ。
そしてTVシリーズは庵野秀明監督自身が言われるよう、
「ライブ感覚」で作られている。
設定は作り込んではいたものの、人類補完計画の真相すらもなく(おいおい)、ストーリーの細かい展開、結末等も事前には決められていなかった。
その時の監督の心境や作品の状況がストーリーにも反映するスタイルが取られて、さらにストーリー後半以降はどんどんいわゆる鬱アニメ化していった。
鬱アニメ化したといっても、不人気からではない。エヴァの人気が爆発したのは深夜の再放送から、というのが定説だけど、実際は本放送時から徐々に右肩上がりとなり、好視聴率は記録していた。
ただ、ライブ感覚で作っていたと言えば聞こえはいいものの、90年代は全てのエピソードを作り終えて納品するスタイルが珍しく、放送と並行して作るスタイルが普通だった。
監督自身がかなり画作りにこだわるタイプなのもさらにスケジュールの遅延に拍車をかけた。
ストーリーが進むにつれどんどんスケジュールがなくなり、映像のバンク(使い回し)も増え、また、作品の人気と注目度が高くなるにつれ監督への期待もプレッシャーとなり、鬱アニメになったと言われている。
(当時の監督の出演声優への失恋が反映された、という話もある)
そして放送末期にはとうとう「壊れた」。
結局視聴者の満足いくカタチで間に合わなかったTVシリーズ最終2話はストーリー的な進展はなく登場人物の心理描写に終始し、既存映像の使い回しと線画等で構成され、手抜き等批判されて伝説になっているほどだ。
また、終盤、作中のキャラクターの心境には当時の庵野監督のクリエイターとしての悩み、自問自答も反映され重ねられ、作品単体で解釈するのは困難な展開、描写も多々出てくるようになる。
特に中盤以降はフィクションの主人公と監督自身のギャップ、本作で言うなら
「華々しい活躍をし世界を救い、美少女に好かれたり社会に認められる可愛らしい中性的な顔をした主人公(夢)と、実際のヲタクであり非モテで社会的には日陰者のクリエイターである自分自身(現実)の落差に悩む」
という監督の自意識もまた、作品の鬱化を加速させ、物語が壊れ始めた原因かもしれない。
こういったフィクションのクリエイター特有のジレンマというかメタ的自虐的な自意識は、現在まで有効で、一つ例を挙げるとチェンソーマンの藤本タツキが描いたルックバックという作品にその問題意識は引き継がれ描写される。
また、当時は今と違って「大人がアニメを見るなんてw」とか、アニメファン自体が作品に関わらず一般的に「キモい」と今以上にかなり下に見られており、そういった「キモい」アニメ文化というレッテルに苦しみ、またかといって誇ることもできない監督の苦悩が色濃く反映されている。
なお悪いことに、当時はインターネット黎明期であり、作品に不満を持つファンの過激な悪口や殺害予告がロクに規制もされず平気で公式やファンサイトに書き込まれていた。そういった今でいうノイジーマイノリティの書き込みに大いに影響を受けてしまった(当時はノイジーマイノリティという言葉もなく、世間一般や多数のファンの意見のようにも思われた)ことも監督の鬱化に影響を与えていた。
さらに、だ。肝心のTVシリーズ最終2話。こちらは上述の通りストーリー的には不明点が多く、作画コストカットのために登場人物達の心理にスポットが当てられ、主人公が最終的に心理的に得られた平穏を描き、一応はハッピーエンドだったのだが、この結末の安易さが社会学者含めて大いに批判されることになる。
大塚英志氏には「自己啓発セミナーのようなもの」とぶった斬られ、主人公の悩みの解決方法やその心の持ちようが独りよがりであり、マヤカシであると大批判を食らった。
しかし残念ながらおそらくこの結末は庵野監督がある程度納得はして作り上げたものであり、そうした批判は予想外だった分さらにダメージを受けることになる。
そしてそういった視聴者側の不満点もあり、心理的な部分ではなくストーリー的な結末を求めるファンの要望に答えるカタチで劇場版の制作が決定した。
のだが。
こうしたクリエイターの自意識としての悩み、過熱するエヴァ現象、その一方の当時のアニメ文化の文化的な扱いの低さ、ファンの過激な悪口、TVシリーズ最終2話の猛批判、超人気作品の結末へのプレッシャーという何重苦を背負った上で旧劇は作られることになる。
旧劇場版のラスト独自解説
そしてそうしたプレッシャーのもと制作される作品がまともなわけはないと言うべきか、結果的にやはり壊れた作品となった。
実は1997年に2作に分けて劇場版は公開されていて、総集編と新作ちょい出しの春エヴァとは別の夏エヴァ、
エヴァンゲリオン劇場版Air/まごころを、君に
で旧作は一応の完結は見せた。
ちなみにこの「まごころを、君に」は名作アルジャーノンに花束をの映画の邦題だ。(邦題では句読点なしのまごころを君に)
ここでは壮大な人類補完計画が描かれ、人類補完計画は群体として行き詰まった人類を単体の生物として人工進化させることが目的だった、という真相が語られるのだが
「その単体の生物は何のために生きるのか」
「超巨大化した単体の生物でどう生きるのか」
等色々な疑問が湧いてくる。
この時点で人類補完計画に何も計画性もなかったしテーマもないことがよくわかる(上述の通り当初から何を補完するかも決めてなかった)。
風呂敷を広げるのは上手くて畳めないクリエイターはゴマンといるが庵野監督も例に漏れない。
その単体生物はなんと地球レベルまで巨大化し、翼も生えた綾波風リリスという、画的にインパクトがあり過ぎて有無を言わせないのだけど、
こういう中身はないけど迫力で誤魔化す手法が意外と庵野監督は上手い。
そもそもエヴァは難解なストーリーと言われたが、庵野監督自身エヴァは衒学的であるとし、実はハリボテ的でもあると監督自身が暴露している。
しかし世間には難解だと持て囃されたのだから、監督のプロデュース力の高さは大したものだ。
また、作中、TVシリーズの続きから始まり、友達(人間)だと思っていた使徒を自らの手で殺してしまった主人公は心を閉ざし、いわば引きこもってしまうのだけど
これはエヴァのプレッシャーに嫌気がさし、TV終了後しばらく何も手をつけられなかったという監督の姿にほぼ重なり面白い。
そして劇場版では
冒頭の迫力のNERV虐殺シーン
弐号機vs量産型のバトルシーン及び初号機覚醒
そして
人類補完計画の阻止
とストーリー的には見事に消化され見せ場もありハッピーエンドを迎えるかに見えた。が。
最後、血で染まった赤い海の浜辺で、シンジとアスカはたった2人きりであり、お互い少し離れて寝そべっている。
しばらくしてシンジはおもむろに無言でアスカに乗り掛かり、首をしめ、頬を撫でられるとアスカの胸で泣き、それをギロっと見たアスカが一言呟く
「気持ち悪い」と。
そして終劇の2文字が出る。
意味がわからない。
様々なことが説明不足に見え、僕も初見では「は?」と面食らってしまった。
これは考えるに、阻止したものの実は一度は人類補完計画は完遂され、群体としての個人が単体に統合される過程でお互いの心を覗くのだが、そこでシンジはアスカに拒絶され、なんと首を絞める(DV気質?)。
その関係性が結局は補完計画阻止後も継続され、個体に戻っても変わらなかった、というオチにも思える。
計画阻止前、「補完計画が終わると、また人を傷つけ、傷つけられる世界が待っている、それでもいいの?」
と問われ、シンジは「構わない」と答える。
これはある種の現実や他者を受け入れ生きていく覚悟を感じさせられ、主人公の成長を感じさせる。
ただし、LCLから復活できた(自分の形をイメージできた)のが人類の中で皮肉にもエヴァパイロットのアスカとシンジだけであり
そして相手がアスカであるなら補完計画においてもわかり合えなかったため、
単体生物としての安らぎ(?)を捨て、他者と傷つきながらも生きる覚悟を決めたものの、そのわかりあえない相手との地獄のような日々を送る、
というバッドエンドにも思える。
しかしながら劇場版26話のサブタイトルが
“I need you”
なのは何とも皮肉だ。
これはシンジのアスカへの一方的な甘えを象徴する言葉なのか、それともアスカはアスカで実はシンジを必要とし、お互いを必要としているということなのか。
後者なら気持ち悪い話だ。
このラストについては庵野監督も明言はしてないため、解釈に正解はないとも言える。
そして、監督はこのラストについて、「一つのサービスである」とNHKの番組で語ったことがある。
「エヴァは夢であり、効きすぎた。だから夢を見続けさせるのではなく、夢から醒ますのもまたサービスなのだ」と。
しかしこれは、旧劇は「効きすぎた」重度のエヴァヲタクにだけ向けられた作品であり、エンタメとしてエヴァを楽しむ一般層やライト層には向けられていない、
故に万人向けではなく意味不明であり余計なお世話な作品になってしまっているとも言える。
夢を醒ますためとはいえ、他者と生きていく覚悟を決めた主人公が、結局は他者に拒絶されるというある種の救いのないラストをなぜ描いたのか、いまだによくわからない。
ただ、これはやはり様々なプレッシャーに追い詰められていた監督の苦悩をよく反映しているかもしれない。
それとも単純に批判された安易なハッピーエンドのTV版とは逆のラストを描いただけとも言えるだろうか。
しかしこの「ヲタクは現実に帰れ」というメッセージはヲタクには届かず、数年後庵野監督が自己嫌悪もあり毛嫌いするようなアキバ系ヲタクが楽しみ熱狂する涼宮ハルヒブームが起こることになる。
さらに以降エヴァ自身の影響もあって比較的一般層にもウケる多様なアニメ作品が作られるようになり、世界にも広く認知されてしまうのはやはり皮肉だろう。
そして、庵野監督自身制作体制や構造含めて批判していた日本アニメ文化の地位自体が世界的に格段に向上する(アニメスタッフへの待遇を除いて)ようになるとは。
まとめ
エヴァの画期的な点と言えば、作品自体もさることながら、上述の通り作品にクリエイターの自意識や苦悩をそのまま反映することであり、またヲタク文化に対して批判的であることだった。
かつてここまである意味正直に監督が自己を投影したアニメはなかったとも言える。
あの呪術廻戦やチェンソーマンの作者もエヴァからの影響を公言しており、その影響力は計り知れない。
では2007年からの新劇場版シリーズはどうだったのか。
それは次回に語ろうと思う。
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