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熊雄(連載②)


 達雄の父は富山県の出身で、達雄は小さいころから父親に付いて、本州の山々に入っていた。そこで熊だけでなく狸やアナグマ、野兎などを捕獲していた。
 明治から大正時代の初めに、熊を追い本州(内地)から北海道に来た。
 江差に居を構え、山の中に分け入っては熊撃ちを生業にしていたのである。つまりマタギだった。遠く日高地方の山に入り、ヒグマを相手に格闘する日々だったようだ。
 父は達雄が小さいころに、マタギのことを話したことがあった。
 マタギとは、元々東北地方の山中で古い狩猟法を守って狩りをする人々をそう呼んでいた。アイヌ語でマタンギトノと呼んだことから変じてマタギと呼ぶようになったという説もある。他にも山をまたいで歩くことからそう呼ぶようになったなど諸説があるらしいことなど、小さい達雄には難しい話だった。
 マタギは狩猟を生業とし、なおかつ世襲制で二十名ほどの男性が集団で猟を行う。彼らには、非常に厳しい掟があった。山神への儀礼や狩猟の時期の厳しい禁忌、獲物の分配などであった。
 マタギは国内であればどこでも狩りをすることができたのである。
 達雄の父は大正十四年、先住民のアイヌの娘を娶りそして生まれたのが達雄だった。
 達雄はそのようなマタギの血を引くことから、世襲制でマタギとなるはずであったが、彼はマタギにはならなかった。
 それは、厳しい掟と長い間、家を空けることを嫌ったためだった。そのなかでも一番の理由は殺生を嫌ったことだった。そして成人となり単身江差を離れ、太平洋側の海岸を何日も何日も歩きとおし、様似で腰を落ち着けたのである。
 様似での生活は、その日暮らしの状態で、昆布採りやら置網魚船に乗り込んだりして食い繋いでいた。その頃、漁師としての気構えも備わってきた。
 その後、漁の関係で襟裳岬の近くまで移動した。そこで和人の娘ヨシと所帯を持った。
 そして昭和二十七年十月に待望の熊雄が生まれたのである。


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