日本の住居
昭和初期に人気のありましたユーモア作家に佐々木邦がいました。サラリーマンの月給が百円にあがったら家を建てるという話が度々出てきます。
昭和三年頃の学卒の給料は七十円程でした。千円で阿佐ヶ谷辺りの土地付きの二DKSが買えました。思いのほか高かったのが電話の架設費とピアノでした。
電話は東京で千二百円、大阪で千百円もしました。
新作落語の傑作『呼び出し電話』もこの頃に出来ています。アップライトは五百円、グランドは千円以上でした。
昭和六年に役人の給与が改正され終戦まで続きましたが、ホワイトカラーの平均給与は九十円、ブルーカラーの其れは七十円でした。サラリーマンの月給百円は課長クラスでしょうか。
当時(昭和初期)の新築家屋の間取りは洋間が一つで残りは和室が一般的でした。現在とちょうど逆でした。
戦前と戦後の住居の大きな違いは電化の進んだことでしょう。いま、電気アイロンとか電気冷蔵庫という人はいませんよね。
戦前、コンセントの必要なものは、ラジオだけでコンセントは小壁に付く一ヶ所だけでよかった。
小壁とは鴨居及び付け鴨居と天井との間の壁のことです。大壁、真壁、畳寄せ、長押(なげし)廻縁(まわりぶち)、束(つか)、母屋(おもや)、棟木(むなぎ)、破風(はふ)、鴟尾(しび)は死語となりつつあります。寂しい限りです。
当時のスイッチは玄関外灯、便所、風呂場の三箇所だけでした。現代は一部屋に三ヶ所のコンセントは常識であります。
江戸時代の民家は五軒ごとの共同責任でしたので、付き合いの悪い者は弾き飛ばされたようです。人を訪ねて行くと隣の暇人(ひまじん)が留守番をしていたなんてことが下町の長屋にはありました。何処に貴重品があるかも先刻承知なのでありました。流石に今の下町でもこういう光景は見当たりません。『留守たのむ人に枕と太平記』のような長閑な時代もあったのです。
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