黄金道路 #10
襟裳岬周辺は良質なコンブの産地であり、江戸時代後期より水産資源を求めた和人が移住した。
そのころはカシワやミズナラ、シラカバなど広葉樹の原生林が広がっていた。
明治になると開拓農民も加わり、炊事や暖房用の薪として海岸林を伐採した。
さらに明治中期には牧場が開かれたほか樹木が洋紙のパルプ原料とみなされたため植生破壊に拍車がかかり、ついに、はげ山同然の状態となった。
強風で飛散する砂塵は屋内にまで舞い込み生活に支障をきたしたほか、海中も砂で覆われ、コンブが生えなくなり、襟裳岬周辺の海が黄色い海に変貌してしまった。そしてサケや回遊魚も去ってしまった。
当時の林野庁は昭和28年(1953年)以降、治山事業を開始した。
まず砂地に草本の種子を蒔きつけたが、強風によりすぐ吹き飛ばされてしまった。
そこで地元の漁師たちが、蒔いた種子の上を「ゴタ」と呼ばれる雑多な海藻で覆い、蒔いた種子を地面に固定する方法を編み出した。「えりも式緑化工法」といった。
その工夫により一気に草地化が進行した。
その後、防風垣で覆った上でクロマツを中心とした植林が行われ、平成11年(1999年)、荒廃地面積のほぼ89%にあたる170ヘクタールの木本緑化を終了した。
当時の地元の漁師たちの涙ぐましい努力を映画化するとの計画に心躍る。
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