20歳で『14歳からの社会学』を読む


はじめに

 宮台真司『14歳からの社会学』を読んだ。
 この本を薦めてくれたある友人が私と話すときによく出てくる概念や、彼の考えの根本が述べられているように感じられた。忘れないよう、読み終わって早いうちに、わかったこと・感じたこと・考えたことを書き留めておきたいと思ってこれをしたためる。

本書のメッセージと自分

 この本の副題は『これからの社会を生きる君に』である。
 『14歳から』と銘打っているように、これは思春期真っ只中であろう若者に、『これからの社会を生きる』上での心構えや重要な教訓、考え方を社会学の観点から伝えることを目的とした一冊だと思う。
 筆者は度々、「君はどうだろうか」「どう生きたい/死にたいか」といった問いを読者に投げかける。豊かに生きるためのいくつかの知識を提示した上で「どうしたいか」と問い直すことで、価値観や、よりよく成長するための思考の方法を身に着けさせ、さらには考えたことを実行に移す力を伸ばすことをも目的としているように感じた。

 さて、私はもうすぐ21歳になる身で、自殺念慮に悩まされる日々を送っている。いびつに育ってしまったなと思う。『14歳』はとうに過ぎてしまったわけだが、この本にある悪い例、「本当にそれでいいのか」と述べられているような人間に、私は今や成り果てていた。
 先述の友人とは、人生相談まがいの会話をよくする。自己嫌悪だとかの悩みを赤裸々に(もっぱら私が彼に)話して返答を貰う。しかし最近は「俺にはお前を救えない」と言われるようになった。この本を読んだ今では彼の気持ちが少しわかるような気がする。筆者の宮台に感銘を受けて成長しつつある彼にとって、これまでの経験に拘泥して凝り固まってしまい、依然先へ進めないでいる私は、確かに救い出しようがないだろう。

本文

試行錯誤、承認、尊厳

 第1章で、「自由」「承認」「尊厳」という重要なことばが導入される。「自由」とは、十分な選択肢を持ち、かつ適切に選択する能力を持つこと。ひいては試行錯誤をしてそのふたつを培うことができる、ということだ。そして、試行錯誤することが他者に認められる――「承認」される――ことで人は「失敗しても大丈夫」「自分はOK」という認識を得ていく。これが「尊厳」である。「尊厳」はさらなる「自由」に繋がり、好循環を生む。
 「尊厳」は、幸せに生きて死ぬために必要だ。しかし、試行錯誤するにも、それを誰かに認めてもらうにも、必死に努力することが必ず求められる。傷つかず、苦労せずには幸せに生きられない/死ねない。この事実は後の章でも繰り返し強調される。試行錯誤なしに、努力なしに愛は得られない。成長も得られない。

 試行錯誤のチャンスを逃して、傷つきたくないけど愛されたいだとかの「幼稚」な考えのまま大きく育ってしまった人間がいるなら、いかにして変わっていけばよいだろうか?「尊厳」を得られなくて失敗を恐れるようになった人間はどうすれば幸せになれるだろうか?その答えはこの本にはない。もしかするとこの世のどの本にも載っていないかもしれない。

「感染」

 第5章では、なにかを学ぶための動機として、「競争動機」(=優越する喜び)、「理解動機」(=わかる喜び)に続いて3つ目の(そして最も重要である)「感染動機」を挙げている。
 「感染動機」とは、簡単に言えば、ある人物に感銘を受けて「自分もこういう人になりたい」と思うことだ。その人物の真似をして学び(真似び)、自分が理想の人物に近づいていくことに喜びを感じる。先に挙げた2つの「動機」が、特定の種類の行為に特定のタイミングでしか働かないのに対して、「感染動機」は理想の人を意識しているうちは、すべての行為が対象となる。加えて、なりたいものを強く意識するから、学びを自分の血肉としやすい。だから、「感染」するために、多くの人と関わることが重要だと宮台は説く。

 宮台は、「感染」して、「卒業」して、また他の人に「感染」する……というループによって、やがて君も誰かを「感染」させられる人物となるだろう、としている。友人は宮台に「感染」しているのではないかと考えた。彼はそのループの中にいる。

主意主義と主知主義

 第7章の内容の一部を辿ってみる。
 もしも、すべての物理法則を知り、ある一瞬のすべての物理量を把握した存在(ラプラスの悪魔)がいたら、それより後に起こるすべての物事を計算によって導き出せる。あらゆることがある物理法則に従い、それ以前の条件によってのみ決まるなら、この理屈は正しい。この立場を決定論とよぶ。
 決定論に依って考えを進めれば、人の意思だって理論上計算可能である。これが主知主義である。しかし、社会について考えるときは、人の意思を出発点にしなければ成立しない。原因が無限の過去に遡れるなら、誰にも責任を問えないし、社会の分析は意味を成さなくなる。
 社会学においては、意思こそが主役だ。行為の原因は意思にある。これを主意主義的行為理論という。

 主知主義を盲信することは、既に決まっていることをあれこれ考えても無意味だという諦めに近いかもしれない。自然界において決定論を認めることと、人間の社会を主意主義的に考えることは矛盾しない。私はこれを知ってやっと、社会学という学問の入り口に立てたような気分になった。

ニヒリズム

 「どうせみんな死ぬのだから、何もかも無意味だ」のような理屈をニヒリズム(虚無主義)という。ニヒリズムを回避できなければ、何を考えても有意義な結論は得られない。
 ここでも「承認」が求められる。「誰にも祝福されず、さびしく死んでいくこと」こそが怖い、「そんな死は、というか、そんな生は、とてもさびしくてつらい」と宮台は述べている。「承認」され、幸せに生きることに「コミットメント」(熱心に取り組む)していれば、自分の死んだ後の人々の幸せを祈りながら生きられる。
 加えて、社会よりも広い〈世界〉に触れることも大切だという。〈世界〉は人の思い通りには動かない。自分にはコントロールできないこともあるという事実を受け入れること。ある意味、自分という存在のちっぽけさを思い知ることが、死を受け入れて生に意義を見出だすために必要なのだと。

 死ねば生が終わるということは、時に、私にとって救いにもなりうる。苦しい気持ちになると、つい「死んで楽になりたい」という暗い考えが浮かんでくる。
 社会の中に囚われて悩みに浸っているうちは、きっと〈世界〉の不条理さをポジティブに捉え直すことは難しい。私はこのニヒリズムを抜け出せるか。

おわりに

 ここまで読んでくれてありがとうございます。本の内容のごく一部についてしか書けていないので、気が向いたら追記するかもしれない。読んだことがない方はぜひとも一度読んでみてほしい。そして意見をください。では。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集