スタバで500円のラテを飲む私と外にいたホームレスのおじさん
スタバの中と外が一面ガラスの壁とドアで仕切られている。
壁のこっち側は1杯500円のコーヒーを頼まないといられない空間。
お店の外、壁のあっち側は0円でいくらでもいて良い空間。
あっち側では今、おそらくホームレスのおじさんが、地面に座り込んでノートを広げている。
おじさんはペンを持って、ノートと本を広げて何かを熱心に書いている。店内で勉強してる学生さんと同じくらいの熱心さに見える。
日本の識字能力は99%と聞いたのを思い出した。
無職の人でも家がなくても読み書きができる人が当たり前なのが日本なんだななんてぼんやり思った。
私側のこのカフェの空間は地面にガラスで壁を作って隔てられてるだけなのに、今この席に座るためにはお金を払うルールがあって。
でもあちら側、お店のガラスの外側数メートル先にはその場所に無料で居座ってる人がいる。たぶんあのおじさんはこちらに入ってきて注文なんてしない。
外で座ってる人を見たら、私がここに座ってる意味あったっけ?って思えてきた。
ここで30分人を待っていたいから座ってるんだけど、いやそれも立ってればいいんじゃない?とか思うけど、そうじゃなくて、そういうことだけじゃなくてもっと概念的な。。
この500円の価値を考えてしまうような。。
場所とかブランドとか何かを持つことへのこだわり?みたいな執着って意味ないなって。
自分がいる場所が、職業が、自分の努力だけで手に入れられるものだとも思わないし、なにかのタイミングや運でたまたま今の状態になっているだけだと思う。
たとえば明日目が見えなくなったら私はデザイナーの仕事なんかできなくなるし。
たとえば家族が悲惨な死を遂げたら生きる気力だってなくなるだろうし。
なのに、ここの場所だとかブランド品だとかに愛もなく脳死でこだわるってなんの価値があるんだろう。
どうせほっとけば数十年で死ぬのに。
死んだら全部世界に返却する借り物じゃない?などと考えてしまった。
好きという感情にお金を払うとか、誰かにお金を捧げることで心が温かくなるなら別にいいんだけどね。
例えば今のいる空間の話。
今スタバのジャズ風音楽が流れる店内で温かいラテを飲みながらこんな思想を垂れ流している。でも別にスタバは好きだけどスタバに行って美味しいラテを飲んで幸せを感じたかったからここに座っているわけではない。
人を待っている30分を潰すためにスマホをいじくろうとしてて。なんとなく座れる場所を探して、なんとなくスタバが見えて入って、なんとなく500円のラテを高いとも考えずそういうものだという感じで頼んで、一人分の席を占拠した。
でもべつにわざわざ500円払って座るためにここにいなくても良かった気がしてきた。
駅のホームの休憩室でボケっと座ってても良かったのにね。
今持ってるものの基準で当たり前みたいに買うものとか、払う意味を感じずに出すお金はやめたい。
特にオチはないけど。
なんか、べつにいっかって選んで見落としてるものあるんだろうな。
囚われずに生きたいね。
世の中に何ができるかとか、おじさんと自分の間にある格差をどうしたら無くせるかとかまで考えられないけどさ。
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