研究について

投稿する査読論文を執筆している。

16日に搬出作業があるというのに、何一つ引越しの荷物づくりをしていない。

執筆モードに入ると部屋が荒れる。
引用するための論文や本を引っ張り出してそのまま。

いまは「一般的な社会生活」から距離を置いているので、論文の執筆活動がはかどる。10月1日から「正社員として週5フルタイム(あるいはそれ以上)働く」ので、そうなったら、論文の執筆活動はどうなるのだろうな~と最近よく想像をします。

その時はそれなりの「研究」との関係性が待っているのかな。

福岡である人から、関東から移住してきたぼくのことを「アカデミズムの世界にいた世間ずれしていない若者」と価値判断したのか、「関東では象牙の塔の住人だったのでしょうから」などと言われる場面がありました。

当時から、そんなはずないと思っていました。
いろいろ考えたり探究したり、思索したりするのは確かに好きかもしれないけど、アカデミズムの世界の住人じゃないもん。

「当事者性」拗らせすぎてるから、アカデミズム大っ嫌いだもん。最近も脳内妄想で、「ホント学会とか行くってんなら、昔の当事者運動じゃないけど、『学会ジャックしようぜ!?』みたいな呼びかけが当事者の側からあったなら、絶対おもしろがって参加するんだけどな~…大学院の同期と行儀よく学会参加とかハードル高すぎる~涙」なんて思ったりしました。

最近はぼんやりと「アカデミズムという象牙の塔というよりは、障害者運動の中にいたんだよな~」としみじみと思います。

人文系の大学院を修士⇒博士と進学する場合、修士論文と博士論文の研究テーマは基本的に一貫していて、修論を査読付き論文として論文化し、それを博士論文の章立ての1章とかに位置づける…、だいたいそういうのがセオリーらしいです。

自分はいろいろ方法論を間違えて、だから未だに「研究実績0」なのですが、やっぱ、査読付き論文一本出せた!という社会的実績を持てれば正式に「研究者です!」と他人様に胸を張って言えるようなところあるよな…なんて、内心ずっと思っています。

当初は博論のテーマを修論から大きく変えて、それでも修論の一部を査読付き論文として書き上げないと…!と思っていました。

修論の一部を査読付き論文としてリライトすることによって、ぼくが考える意味での精神保健医療福祉業界が少しでも「良い方向」に向かうという願いが叶うと思うよ、と周囲からアドバイスを受けていたからです。

あの当時、ぼくは「当事者として怒りを持って、査読付き論文」を書こうとしていました。けど、修論という10年分の精神科ユーザーとしての自分の経験を踏まえて、いろいろ疑問だったことをすべて詰め込んで、自分なりに回答を導き出した大著をそれこそ「当事者の立場から怒りを持って」書き上げた後、ぼくにはもう燃料がなくなっていたような気がします。

そんな自分が情けなくて、「当事者」の立場から積極果敢に闘っているように見える方々を想起しては、「自分はあんな風に闘えないからホントクソだ、世間に公表できないならあんな研究意味がない。ここで闘えないなら意味がない」とか、思ってました。いくら奮起を促しても、叱咤激励してもテコでも当時のぼくは動きませんでした。

なんか冷静になると、また変なことやヤバイこと、情けないことを書いてしまっているような気がしないでもないけど…。まあ、それが今の自分なんだよな。そんな自分をそれこそ、価値判断することなく、してもいいから、受け止めるクセを少しずつつけていきたいな~なんて今、書いてて思った。

社会福祉学に投稿予定の論文は、10月末日の提出期限を目標に自分なりに着実に仕上げてきています。掲載が決まった暁には、30部別刷りで自分の論文の掲載文章バージョンみたいなものを貰えるらしいので、お世話になっている方々に郵送できる日のイメージも膨らませつつ、なんならそれを最大のモチベーションにもうひと踏ん張り頑張りたいと思います。

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