6月30日から7月10日までのイタリア渡航中に掴みたいもの
イタリアに発つ前夜、視察団一行でNHKで特集されていた滝山病院に関するドキュメンタリーを視聴しました。
自分は正直、滝山病院の件は話には聞いていたのですが意識的に情報が入らないように避けてきていました。
「いかんともしがたい現実」を前に、自分がどう振る舞えばいいのかもわからないし、ただただ無力感を突き付けられたり、なんだか無性に悲しかったり、虚しくなるばかりな気がしていたからです。
実際、みんなで黙々と見入っている際もなんだか無性に涙ぐみそうになる場面があったり、「人間ってそういうところあるよね~」、「八王子のあのあたりだと本当に世間に居場所のない人が流れ着いて、だから見捨てられた境遇の人間相手にこんなひどい仕打ちする人間もいるよな~…(それはそれで決して許されることではないんだけど、かと言って人間っていつも正しいことを実践できる強さとかないよね)。これもアーレントが言ってたアイヒマン事件の際に出てきた「凡庸な悪」かな」と合理化して、自分を納得させようとしていました。
同時に、一緒に見ているこの人たちは一体どんな立場で、どんな思いでこの映像を見ているのだろう…?と思いました。怒っている人もいるのかな?
自分も怒っていいのかな?
いやけどなんか今ひとりで怒り出しても、自分ひとりでどうこうできる問題じゃないから「いかんともしがたい現実」な訳で…。
最近、FBに書く内容をカウンセラーによく話します。
「研究」が怖いって書いたと話した際、カウンセラーに「ずっと、やりたくないとかめんどくさいとかは言ってたし、聴いてきてたけど、怖いって聞いた覚えがなくて、どういうことなんだろう?」というような質問を向けられたのが印象に残っています。
日本の精神保健医療福祉をめぐる「いかんともしがたい現実」を直視させられ、ここのところずーっと考えることを避けていたような「問題」について考えだした時、「研究」にまつわる怖さの正体に近づいたような感覚がありました。
ぼくは「いかんともしがたい現実」を前に、怒りや恨みのパワーを活用して、ひとりであれこれ解釈したり分析したりして、自分なりにアプローチや実践してきた節があります。
自分の研究成果を読んで頂いたある人から、「あなたは研究の論文執筆を通して、自分にもこれだけできるんだ!って自己顕示しているような節がある」と指摘されたことがあります。
「いかんともしがたい現実」を前に孤軍奮闘するのは、得も言われぬ充実感やエクスタシーがあるように思います。それこそカウンセラーによく言うのですが、べてるの家のかつて統合失調の方で、自分は世界の巨悪と闘う正義の味方なんだ!という妄想の世界に生きていた頃はしんどかったけど、とても充実感があったけど、妄想から覚めてしまってからポッカリ穴が開いたようだというようなことを話している人がいて、自分の今までの生き方や「研究」に対する姿勢もそういうところがあったというか…。
端的に言って、ぼくにとって「研究」とはそんな孤軍奮闘を強いられるめっちゃしんどいけど充実感の得られる戦場に戻るような感覚なのだろうな~と気づきました。
先行研究の間隙を縫うようにオリジナリティのある考察を出そうとする時、過集中と過覚醒を駆使して闘う時の充実感が好きだった時期もあるけど…。
最近のぼくは、もうひとり戦場に戻るようなことはしたくないと強く感じているし、今度はちゃんと自分で自分のフィールドや闘う舞台を選びたいという気持ちも強いなと感じています。
ひとり戦場に戻って、かつてみたいな闘い方や生き方しか実践できない自分に今の自分が戻ってしまうようで怖いのです。
今度、フィールドを選ぶ際は、もっとちゃんと仲間とわいわいする場面もありつつ、ちゃんと闘うべきところでは闘う、そんなあり方、生き方、研究ができる人間でありたい。なりたい。
福岡に来る際、自分を福岡に招いてくださった方に「やそらさんが研究を通じて作った空間の中でみんなでパーティーを開いたりしてわいわい楽しむ場面もあっていいんだから」とか、そんな風なことを言われたのが、今回文章を書こうとしている間ずーっと頭の中でこだましていました。
目標や問題意識の近しい立場を異にする仲間と一緒にわいわいしながら、ゴールに向かって頑張っていく
そういうアプローチや方向性、時間や空間を共にできなければぼくは結局また「トラウマ状態」の時のような闘い方や生き方をしてしまうんだな~と、ここ数日しみじみと思いました。
それはもう本当にしたくないんです。
だからここ数年、研究活動が完全に停滞しているんですよね。
だから、今回いろんなご縁やタイミングもあってたまたま選んでいただいたイタリア視察研修(しかも日本の自立生活運動に縁の深いダスキン愛の輪基金のお蔭で行けてる!)中に、「目標や問題意識の近しい立場を異にする方々と一緒にわいわいしながら、ゴールに向かって頑張っていく」感覚をつかめたらな~とか、ずーっと停まっていた研究活動を後押しするような何かをつかめたらと今すごく強く思っています。
今日もこの後、訪問先があるんですけど比較的時間の取れるこのタイミングでどうしても書き記しておきたかったの書きました。
「研究」自体が闘争的、闘争の手段としての「研究」しかわからない。けど今自分はとにかく楽しく、幸せに生きたい、そのために福岡に行くんだ!と力説していた際、最近大学教員になった兄(次男)から、「幸せになるための研究」もあると思うけどね~と言われたのをよく覚えています。
「幸せになるための研究」はまだよくわからんけども、今のぼくは今までのそれとは違う、仲間とわいわいやっていくなかでなされていく「楽しい研究」を志向している。
その手がかりをこのイタリア視察研修で掴みたいと思います。