精神保健医療福祉分野で「当事者」と名乗ることに伴う危険性、その背後にある歴史性・政治性②
今日も今日とてこんな時間から整理の執筆…。
そもそも書き始めた大きな要因を二つ挙げると
⑴福島の相双地域で「支援者」として働く現実が目の前に迫っているので、その前に「当事者」で「研究者」で「支援者」です!という自分の名乗りの意図とか想いの整理をしておきたかった。
⑵縁あって、とある研究会のプログラム委員会なる組織の委員の一人になったのですが、周りの委員の方々に「当事者」が多くて、しかも当事者運動や当事者活動の歴史には詳しいけど、実は業界の現状に疎い自分でも名前を知っている「有名な当事者」も何名かいたので、そういう場での自分のポジションを自分なりに整理しておきたかったのがある。
①を書いてから気づいたことも記しておくと、修論を書いてから「業界との接点」をほとんど持たず、ただ「当事者活動の専門家」になってしまっていて、それでもあくまで業界におけるポジションを「精神科ユーザー」として、いろんな責任から逃げていた自分がこのタイミングで「当事者」を名乗り出してしまったのは、多分に勢いもあったかもしれないけど、それこそ歴史性と政治性に絡めとられることがある面ではわかりきっていた「当事者」概念/像に関するめんどくさい現実のフィールドに降り立つ覚悟ができたということだったのだろうと自分なりに理解しました。
「めんどくさい!」「何もせず社会的にひきこもります!」と騒ぎ、逃避を繰り返していた自分からの卒業㊗️マジ盗んだバイクで走り出す勢い🏍
これこの後、「自立生活運動・女性運動との出会いと当事者という存在/像/概念」というお話と「人権の復権を目指す『精神病』者運動」と、「精神科通院歴は長いし今でもカウンセリング通っているという意味では精神科ユーザーだけど、精神障害当事者というアイデンティティはないかな…🤔」と3つのお話を展開予定なのですが、膨大になりそうだから③以降で書けそうなら書く。