⑦〜原体験、人間関係のクセ、自己物語、責任〜
最近自分の中でいろんな点と点がつながって線になる感覚があったので、「原体験、人間関係のクセ、自己物語、責任」というキーワードを手がかりとして書き記しておきたい。
まず原体験からいこう。
ぼくの原体験は再三触れているように、リビングで繰り広げられる両親による戦争とその仲裁に入る上3人の兄姉と襖一枚隔てた子ども部屋で泣くことしかできない無力な下3人の弟妹という構図だ。
ぼくは長年、このトラウマとも呼ぶべき原体験の中で度々苦しんできている。最近も、ある出来事をきっかけに自分はトラウマ反応に駆られた。
そして、トラウマ反応に駆られて生じた事態に対して、ぼくはトラウマ反応を引き起こした他者にその責任の多くを押し付けようとした。ぼくはトラウマ反応を引き起こした人との関係において、責任に関する適切な線引きに失敗したのだ。
話は変わるが、自分は我が家における「自分の闘い」を終えた3月以降、人に「自分の闘い」の様子と終えてからの実感を第二次世界大戦下の本土決戦へと追い詰められつつあった当時の日本の戦況になぞらえて、以下のように表現していた。
いっつも、まずは敵から攻撃、つまり空襲をされるんですよ。そうするとこっちも一人で補給から応急処置から臨戦から何でもこなすんですよね。空襲が来たら、「鬼畜米兵が来たぞー!!」って鐘を思いっきり鳴らして、その足で一人で対空砲や機関銃、マシンガンなんかも扱って孤軍応戦し続けてたんですよ。けど、安倍元首相の銃撃事件があって、あれは原爆投下でしたよね。それで11月1日には両親の離婚が決まって、あの離婚が玉音放送でしたね。あれ、一般の人は何言ってるのか理解できなかったって言うじゃないですか。でその後3月半ば位にカウンセラーから当時の疲弊の理由を「両親の離婚とかその他一連の家庭内の出来事で、いままで力を入れていたところが空転するようになったし、新しい自分の形を模索している期間だと捉えてるけど」と言われたのが、GHQの上陸でしたねいわば。マッカーサーが現れて、天皇も人間宣言して、自分の闘いもハッキリと終わったんだなってやっと認識できたというか…。ある人には、終わってから3ヶ月位で終わっていたことに気づけたのなら、早かったんじゃない?と言われて救われましたが…。第二次世界大戦って、終わったことに気づかずずーっと戦時下として海外で何十年後に発見された人もいるじゃないですか。
人間関係のクセとして、ぼくは大抵最初はどんな人も受け入れる。そして、自分のキャパを超えたと思うと拒絶する。あるいは、「攻撃された」と思ったら、すごい速度でやり返す。
それは原体験と関連していた。
ぼくは追い詰められると脊髄反射的に、手元のマシンガンや対空砲をぶちかます。良いとか悪いとかではなく、今までぼくはそうして生きてきた。
ぼくにはまるで主体性というものがない。
あるとすれば、このよくわからない自分の人生というものをきちんと自分のものとして受け取り、ぼくの人生がぼく自身に問いかけてくるあれこれに必死に食らいついて、自分の人生に対する応答責任を果たそうとしている位のものだろう。
「主体性がないぼく」だから、修論の執筆についても「こんなものを書かずにはいられなかったほどにぼくを怒らせた、先行研究でいい加減な実践理論ばかりしている奴らが悪い」とか、悪態をついては責任転嫁をする。あくまで、ぼくは自分が狂いながら書いたものに対する責任から逃げる。
それもやはり、先行研究を通して、ぼく自身がとても傷ついた、攻撃された、やられたという実感があったから、それこそそのトラウマ反応としてマシンガンや対空砲で相手をぶっ飛ばすぞと意気込んで書き切ったから、ぼくにとっては、修論も脊髄反射の産物だった。
そこに「ぼくの意思」も「ぼくの責任」もないと半ば本気で思っていた。
ぼくの大好きな小説の一つである『君の膵臓をたべたい』の中で主人公の春樹と桜良はこのようなやり取りを展開している。
春樹「僕なんかがそばにいていいのかな。委員長が言ったとおりだよ。僕は、偶然病院で君と会って流されてるだけで、もっと誰か、本気で君のこと想ってくれる人といたほうが・・・」
桜良「違う。違うよ。偶然じゃない。流されてもいない。私たちはみんな、自分で選んでここに来たの。君と私が同じクラスだったのも、あの日病院にいたのも偶然じゃない。運命なんかでもない。君がしてきた選択と、私がしてきた選択が、私たちを会わせたの。私たちは、自分の意思で出会ったんだよ」
高校生の二人が言う通りだ。
ぼくは、それこそトラウマ反応もあって、いろんなやりたくもない言動のために他者を傷つけたことがある。またある時に不平不満を垂らしながら書き切った作品が手元に残ってはいるのかもしれない。ぼくはただ流されていた訳ではない。
あるいはまだこんなことを言い切れる状態ではないかもしれないけど、ぼくは自分の意思で修論を書いた。それは偶然でも運命でもなくて、ぼくの選択だった。いくらでも途中で投げ出す選択肢もあったはずだけど、書き切ったのはぼくだ。
ここら辺まで整理が進んでくると、自分自身の自己物語の特徴やその作者たるぼく自身のクセなどにも思い至るようになっていった。
難波した物語の中に生まれ、混沌の物語を生きることを長年強いられてきたぼくにとって「自己物語の創造」は、「ぼく自身が自分の人生の責任主体として生きることを可能にする上で必要不可欠な実践」だった。
そこでは、あくまでぼくが自分の人生に対する応答責任を果たす主体になるための自己確立が優先されてきており、「自分の人生の選択における責任」は概ね不問であったような気がした。
そもそもこの人生で「何かを自ら選んだ」と思える、実感できる経験がとても乏しい。
様々な場面で、襖の奥に閉じ込められ/逃げ込みがちなぼくには、「主体性がない」のだ。
もっと「この生き方はぼく自らが選んだ」と断言できるような主体として生きることを可能にするような自己物語の再編をしていいかもしれない。
『君の膵臓をたべたい』の中で、長らく春樹は、自身を流れに身を任せるだけの「草舟」になぞらえていたが、桜良との出会いや交流を通して、自身の選択の重みに目覚めていったように、ぼくももっと自己決定=自己責任の重みを自覚しながら生きていけるようになっていきたいと思う。
そのような生き方への転換は、ぼくの原風景の背景の色を変える実践たり得るかもしれない。襖の奥にしか居場所がなかったぼく自身のあり方を変えるかもしれない。
受容しがちで、まずは相手の出方を伺いがちなぼくの対人関係のクセをより主体的にしていくうえで必要なアプローチかもしれない。
久々に胸を抉るような分析を伴う文章を書いた。
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