精神保健医療福祉分野で「当事者」と名乗ることに伴う危険性、その背後にある歴史性・政治性①

ある人に、「イタリア視察旅行の終盤からしばらくの間、Mr. Childrenの終わりなき旅ばかり聴いてました」と話した。

その人からは、「私の世代だと中島みゆきのヘッドライトテールライトのイメージだったわ」と返事がきた。

そう言われて、プロジェクトXをよく見ていた時ぶりにヘッドライトテールライトを聴いてみた。

聴いてから「イタリアの旅にはやっぱり終わりなき旅だけど、ヘッドライトテールライトは、修論を書き終えてから『修論に社会化されていくぼくの旅』の雰囲気にフィットするな」と思った。

修論を書き上げた時、ぼくは確かに「精神科ユーザーとしての自分」はこれでいい。「無理に当事者として闘わなくていい」と思えるようになったはずだった。

自分の修論報告を聞いてくれた兄から「あなたは今どこにいて、何者なの?」と訊ねられてから、「この分野において自分は何者なんだ…?」という自問自答が始まった。

その答えを求めて、日本で一番ピアサポートが盛んな福岡市に飛び込んでみた。そしてどうやら自分は「ピアスタッフ」ではないし、「ピアスタッフ」にはなれないことがわかった。

イタリア視察を経て、それまで「すべてが中途半端」と感じていた自分自身のポジションに居直れるようになり、「当事者」で「研究者」で「支援者」です!と名乗れるようになった。

それまでのぼくは、「当事者」ではなくあえていろいろ誤魔化したり濁したりするために、基本的には「精神科ユーザー」と名乗っていた。話通じるかなという人には更に、「広田和子さんが言うところの医療者や支援者に対して対等であろうとするコンシューマーとしての精神科ユーザーです」とかつけ足す勢いがありました。

そんな自分が最近は「当事者」を名乗り始めてしまった。これはすごい変化だと思うし、ここ数日、冷静になって考えるといろいろ気持ち悪いというかむず痒くなってきてしまったんですよね。

ぼくは修論でセルフヘルプグループ論批判の結論部分で以下のような議論を展開している。

「当事者グループに対するセルフヘルプグループという名づけには、ほかにも本質的機能があると言える。それは、セルフヘルプグループと名づけられた当事者グループを地域福祉におけるSSNの一翼として位置づけ、活用するという機能であり、目的である。(改行)成富(1988 : 99)は、『セルフヘルプ(自助)はけっして新しい言葉ではない。むしろそれは使い古され、手垢にまみれた言葉だと言えるかも知れない』としている。同様にセルフヘルプグループも手垢にまみれた概念だと言える。セルフヘルプグループ概念はこうした歴史的・政治的文脈のなかにあるため、これを当事者グループが安易に名乗ることは『医療や福祉の補完』(宮本 1992 : 204)という役割を自ら進んで担うことを意味してしまうと言える。したがって、特にセルフヘルプ・オルタナティブであろうとする当事者グループはセルフヘルプグループという名乗りに伴う危険性を自覚し、いかにしてその歴史性・政治性に絡めとられずに、絡めとられながらでも独自の豊かな実践や活動を展開できるかが問われていると言えるだろう」(川田 2022 : 116-117)

修論を書いていた時にはとにかく自分が「有事の際に文句をいう精神科ユーザー」で居られればいいという気持ちが強かった。けど、うっかり「当事者」と名乗り始めて気づいてしまったのです。修論で自分が展開したセルフヘルプグループ論は、かなりの程度そのまま当事者論に妥当するということに。

そりゃそうだよな〜。だって「セルフヘルプグループの成立には時には個人レベルでの支援やかかわり、もとより介入の必要性が専門家の側には問われてくる」(川田 2022 : 111)のだから。

従来のセルフヘルプグループ論は、「専門家のパートナーとしての当事者」の育成論でもある。

「ピア=当事者」という等式が存在する。

ぼくなりの理解に基づけば、「ピア=当事者」には恐らく二つの含意なり意味がある。

ひとつは、「精神保健福祉システムをリカバリー志向へと変革していく当事者」という含意。

もうひとつは、ある時点ではヴァルネラブルだった当事者が、ソーシャルワークのアドボカシーやエンパワメントを通じてヘルパーセラピー原則が理想とする援助の担い手を増やすという戦略を体現する、つまり「ソーシャルワークの成功の証明としての当事者」という意味だ。明らかに「専門家のパートナーとしての当事者」の育成論としてのセルフヘルプグループ論に、「ピア=当事者」という等式は下支えされている。

いつぞや書いたけど、本当に「当事者」って、かわいいと同じでめっちゃ多義的だし発言者の意図や含意を丁寧に読み解く必要がある。

精神保健医療福祉分野における「当事者」概念も相当手垢に塗れている。だからこそその安易な名乗りは、「医療や福祉の補完」という役割を進んで担うことを意味してしまいかねない歴史性・政治性が実は既に存在している。

本当はこうした気づきを踏まえて、自分なりにそれでもこの分野であえて「当事者」を名乗る背景や想いなんかの整理を書く中で進めようと思っていたのですが、通環環境の不備の関係でパソコンからではなくスマホからの打ち込みで時間がかかったのもあって眠くなってきたからまた後日。

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