厳寒のユーコン川をワンチャン歩き通せるか?@「火を熾す」(1908)Jack London
あらすじ
採鉱場へ向かう仲間たちから外れ、男は単独で厳冬のユーコン川を移動する。連れ添うのは一頭のエスキモー犬のみ。男は襲いかかる自然の猛威とどう闘い、どう決着したのか。
ユーコン川って耳にしたことある!
舞台であるユーコン川については聞き覚えがあった。カナダのユーコン準州とアメリカ合衆国のアラスカ州を流れる河川。カヌーやカヤックの聖地という印象が強い。
アウトドアブランド「mont-bell」の店舗で、野田知佑さん(カヌーイスト)の書籍を販売しているのを目にしたことがある。
カナダのユーコン準州の州都はホワイトホースというそうだ。そんな名前を聞くとウイスキーと炭酸水で一杯いきたくなるが、少し我慢。
山男は雪山を思い出す
以下、この小説については「物語」主人公は「男」と表現したい。
物語は終始、寒さを描き続ける。
「明けた朝は寒く灰色だった。おそろしく寒い、灰色の日」
「零下五十度とは、痛みを伴う凍傷を意味し、ミトンの手袋や耳覆いや暖かい鹿革靴
(モカシン)や厚い靴下によって防護する必要を意味する。」
「歩きながら、手袋の甲で頬骨と鼻をこすった。考えずとも手は自然と動き、時おり左手と右手が交代した。だが、いくらこすっても、動きを止めたとたん頬骨の感覚は麻痺し、すぐ続いて鼻先も麻痺するのだった。」
物語の前半は冷静な判断で歩き続ける男。昼食のパンを想い、笑みをこぼすシーンは緊張が続く本作で唯一ホッとする場面だ。
ちなみに僕は山を登ることを趣味としている。雪山にも登る。この物語に出てくる「寒さ」は、厳冬期の山頂を思い出させるのだ。手袋を外した時の指の感覚の失われ方、ちぎれそうになる耳の痛み、長時間歩いた時に靴の先から徐々に伝わる冷たさ。読み進めるにつれ、そんな雪山の緊張感がよみがえる。もちろん僕が登る山の寒さは、小説の舞台と比べるのも恐縮するレベルだが。
そして勝負はどうなる?(ネタバレあり)
後半にいくつかのトラブルが起き、男は絶対絶命の危機と対峙する。
男が力尽きる結末を予想しつつ、頁をめくる。作者はどんどん男を追い詰め、男は理性を失っていく。
それでも8:2、いや9:1くらいの割合で絶望と希望が交差する。かすかな願いにも似た希望が、物語を生かし続ける。
結論を言おう。
男は自然の猛威に負け、永遠の眠りにつく。
ここまで男の心理を描き続けた物語は突如、目線を連れのエスキモー犬に変える。犬はじっとしたままの男を不審に思い、そばに近づく。やがてもう二度と動かないことを感じ取り、ひと吠えするや食べ物と火の温もりを求めて、野営地の方向へ進む。
読者は結末を知り、脱力して最後の頁をめくる。映画のラスト・シーンのように、犬が男に近づき、そして走り去る姿をただ見つめるしかない。
果たしてワンチャン無かったのか?
この物語には二面性がある。男が生きのびるバージョンも存在するのだ。
やっぱりワンチャンあった!このことが余計に物語の凄みを増す。生死を分ける判断、勝っても負けても不思議ではないギリギリの状況が作者に両方の結末を描かせたのかも知れない。
さいごに
小説とは作家の視点で描かれたものを、読者自らの経験や想像力を駆使して理解し、登場人物の中に入りこむものだと思う。作中の風景や気候から、希望や不安、喜びや怒りといった投影を感じ取り、時間をかけて登場人物たちと融合していくのであろう。その解釈は千差万別で良い。時には作者の意図と異なることもあるかもしれない。
作家の村上春樹は短編「アイロンのある風景」(『神の子どもたちはみな踊る』収録)の中で本作にふれる。(作中の邦題は『たき火』)そして登場人物にこう語らせる。
この解釈が正しいかどうかは分からない。だが僕はこの読み方を、美しく、優しいと感じる。そう読みとる心が美しく、優しいと思う。
110年以上も前に書かれたこの物語は、厳寒のユーコン川を歩くという特異な状況を通して、読み手と男の心理をリンクさせ、スリルを味合わせてくれる名作である。そして、そのラストはとても静かで美しい。