憎しみの果てに見えてきた希望
こんばんは。夜の帳が下りる頃、ぬっと出てきたアラフォーです。
私は、過去に、壮絶な虐めにあっていた。
クラスの男子全員から、汚ない、近寄るな、笑うなキモい、等と、罵られ、罵声を浴びせられた。
それが原因で、今でも、男性が苦手だ。
姉からは家庭内暴力を受け、暴言や罵声や嫌がらせ、暴力を振るわれ、左手薬指を折られた。
今でも指は、少し曲がっているし、傷痕も残っている。
将来、結婚指輪をはめる指(予定)なのに、と、残念に思う。
私は、私を虐めた奴等と、姉が、憎かった。
憎しみからは何も生まれない、と分かっていても、そんな綺麗事で片付く様なものではない。
私に向けられた酷い仕打ちを、到底許す気にはなれなかった。
心が荒む。心が醜くなっていくのが分かる。どこまでも続く恨みや憎しみの感情に、私は、支配されていた。
私は正義感が強くて、曲がったことは大嫌い。
自分に厳しいけれど、人にも厳しい。
これ以上、自分が堕ちていくのが嫌で、人を許せない自分が嫌で、自分を変えようと努力してきた。
私は、私を磨く為に、過去の辛い経験が有ったのだと思う。
だから、磨いてくれた人達を許さないと、前に進めない。私は、私の課題を乗り越えて、前に進みたい。
これは、私自身の為だけではない。私は、将来、困っている人を助ける側になりたい。
だから、前に進みたい、と思うのだ。
過去に、何度も、恨みや憎しみを捨てなくてはならない、私を虐めた人達を、許そう、と思った。
表面的に許すことは、簡単だ。忘れれば良いだけだ。
けれど、心の奥底では、許せていない。
本当の許しではないのだ。
理想と現実の狭間で、葛藤と煩悶を繰り返す。
然し、最近、その考え方が変わってきた。
私は両親を亡くしている。
人生、誰もが必ず終わりを迎える。
その時に、私は、憎しみを抱えたまま、天国に旅立つのだろうか?
そもそも、こんなに心が汚くて、天国に行けるのだろうか?
神様は、私に、悪い見本を見せて下さり、反面教師にしなさい、と仰っておられるのではなかろうか。そして、改心しなさい、と。
私は、私の人生が、社会や人の為に尽くした人生であって欲しいと、常日頃から思っている。
けれども、人を思いやることの出来る人って、心にまっくろくろすけが住んでいるのだろうか?
私は、なりたい自分に自分を近づける努力をするべきではなかろうか?
そう思って、理想の自分に自分を近づける努力を続けている内に、私を虐めた人達や姉に、感謝の気持ちが湧いてきた。
納得出来ない!理不尽な扱いを受けたのに、加害者達に感謝するなんて、悔しい!と、葛藤、煩悶を繰り返す日々。
だけど、よく考えると、その経験があるから、虐めや暴力の話を聞くと、憤懣やる方無く、我慢するのがやっとな位に、怒りを感じ、被害者は、さぞかしお辛いだろう、助けてあげたい、と心底思うことが出来る。
このことは、私にとって、宝、なのではないか?と思った。
人が苦しんでいても、我良し、の人が、社会には多い。
もし、私が、虐めや暴力で苦しんだ経験が無ければ、私も、あちら側の人間になっていたかもしれない。
人間、向上すれば神となり、堕落すれば悪魔になる。
人の価値は、心の清さで決まる。
心が澄んでいて、人に優しく、社会や人に尽くせる人は神だ。
だとしたら、私は、神、になりたい。
別に、名誉欲等ではなく、私の人生は、どれだけ社会に貢献出来たか、多くの人の役に立てたか、感謝される様な存在であったか、そこに、私の存在意義と、私の価値を見出すことが、私の人生をかけた目標なのだと思った。
母は、社会や人に尽くした人だった。旭日単光章を受賞し、死ぬ直前まで仕事をしていた。
人の為ばかりで、利他の行いを、どこまでも実行した母を、誇りに思う。
私に、生き方の見本を見せてくれた。
命のバトンは、既に、私に渡っている。
私は、母の代わりを担っていかなくてはならない、と思いつつも、重積に、怯んでいた。私は、チキンだ。
然し、同じ道を歩まなくても良い。
私は私なりのやり方で、人を救う道は有る、と思う様になった。
そうであれば、私は、私の経験を活かした道を歩んで行けば良い。
今はまだ、闘病中で、何か出来る訳では無いが、心を変えると、見える世界が変わる。
新しく見えてくるであろう世界に、私の未来への希望を馳せて、日々、少しずつ、私は、私なりに努力を積み重ねていく。
努力は、裏切らない。頑張った分、自分を変えられる。
そう信じて、前に進んで行く。時には、つまづきながら。
稚拙な文で、申し訳ない。
最後まで読んで下さり、感謝。