8/7 『シオンズ・フィクション イスラエルSF傑作選』を読んだ
えっらい時間をかけてちびりちびりと読んでいたが、とうとう読み切った。解説やあとがきもほとんど理解できないながらも意地を張って読んだ。疲れた。
もともと海外翻訳ものが苦手だってのに、それがさらにSF、それがさらにイスラエルの、という敷居の上に敷居を架したような逸品を、よくぞ手に取ったものだ。本の厚みと装丁を見てたら買いたくなってしまった。これが物理書籍の醍醐味か。意外と苦いな、醍醐味。
目次を見ても、見事に知らん人たちばかりが並んでいる。ラヴィ・ティドハーだけは『完璧な夏の日』を読んだことがあった。ただあれとてどれだけ面白さを理解できてたのか、今となっては怪しい……などと戦々恐々としていたが、まえがきで「ほぼ異世界の小説」と言われていて、まえがきでそう言うんなら、わからなくたってそれはもうしょうがないと、その一言をたのみにエイヤッと飛び出した。
だがまあ、やっぱりわからないのである。読めないってわけじゃない、意味の解らない単語も調べればなんとなく解りはする、でも読み進めていくとわからなくなってくる。最初は何が起こってるかわからず(これはおそらく話の構成としてもともとそのように書いてある、筈)、少し読んでいくとなんとなく何が起きているのかわかる……のに終わりへと近づいていくと結局わからなくなる。展開がつながった気がしない、オチが伝わらない。これはオチてるのか? いや、そもそもイスラエルにオチという概念はあるのか? あるよな?……と、混迷を極めていく。そういうことがままある。
それに、翻訳文ってのはどうしてこう、さっきまで敬語だったのに急にそれが取れたり、その逆になったりとかするんだ。それまでの文体というかノリのようなものが、ある瞬間にいきなりぶった切られるようなことが、どんな翻訳文にも非常によくある。アレって一体何なの……原文にあくまで忠実に訳すとそういうことになるのだろうか? そういうところもまたよくわからない。
こんなことだから、たとえ短い話でも読むのに相当な時間がかかってしまう……のだが段々、長いこと持ち歩いている間にそれも吹っ切れてきた。最早、わかろうがわかるまいが知ったことか、といった心境に至った。わからないものは、わからない。だがそれならそれで、わかるとこだけわかっておけば、もうそれでいいだろうと考えるようにした。こうもわからんわからん言ってると、なら今までお前が「わかる」と思って読んでいた作品達は、しかし本当にちゃんとわかって読んでいたのか? 作品のテーマ、シーンの構成意図、このときの作者の気持ち、全部「わかって」たか? お前は何か絶景を見て感動し心を震わせているときに、その視界内で起きている物理現象すべてに説明をつけられるから感動するのか? 違うだろう。お前が感動していたのは作者の気持ちにじゃなく、自分の気持ちにだろう。「わかる」作品にだってわからない部分はあったろうに、それでも面白く読めていた。ならば、ほとんどわからない作品でも、わからない部分を据え置いたまま面白がることはできるんじゃないのか。わかる部分……正確には「わかる」と思ったとこだけわかっていれば、そして面白がっていればそれでいい。たとえそれが誤読や誤解だろうとも。それがお前の読書であり、お前にとってそれらの作品はそうだったんだということであれば、それを咎める人など、イスラエルにだっていやしない。
というわけで、面白かった。最後に、そうは言ってもいくつかはちゃんと話の流れもオチもわかって、ちゃんと普通に楽しめた作品もあったので、それらを並べておく。ロテム・バルヒン「鏡」は、中でも一番面白かった。鏡を割ると、現在とはちょっと違う並行世界に自分の意識が移り、鏡の中にいる自分が、それまでいた世界の自分としてその世界を生きる……実にシンプルかつスマートな並行世界移動。SBRの大統領のスタンド能力みたい。自分以外の誰かが鏡を割ったことで、並行世界移動の権利が向こうの自分に移ったのだろうか。ヤエル・フルマン「男の夢」も面白い設定だけど、あまりにも救いも解決もなく終わってしまって慄えた。SF的な現象を解明していく話かと思ったら、どうにもならず終わるんだもの。一気にホラーだった。グル・ショムロン「二分早く」は、ひたすらジジイがクソジジイだったというオチ。オチ? ニタイ・ペレツ「ろくでもない秋」は、自棄っぱちな語り手の意識とそれに呼応して歪み崩壊していくような世界の有様がニヒルな愉快さを醸していたのに、まさかこの展開からハッピーエンドに落ち着くとは思いも寄らず。ハッピーエンドでいいんだよな? 驢馬のトニーがいいヤツだったのに死んでしまったのは悲しかったが。
さてこれと同じシリーズで、ギリシャSF傑作選というものも出ているというのだが……まあしばらくは、よかろう。また醍醐味が嘗めたくなったら考える。