映画視聴記録:そうして私たちはプールに金魚を、(ネタバレあり)
どこにも行けない人が何処かに行けるのが映画なのかもしれない。結局結局結局、どこにも行けないとしても。
何処にも行けないことを悟ってしまった少女達を見ることであの頃に行くのかもしれない。
この街に通る何処にも行けない国道、何処にも行けないプール、確かにいるはずなのに暗くてよく見えない金魚。
全体に流れるのは閉塞感と諦念、それでもふとした瞬間に煌めくものが生命って感じだ。愉しそうにはしゃぐ姿のすぐその後に入る「つまんないね」というモノローグ。誰かにとって喉から手が出るほど羨ましい平和と退屈が地獄だという実感。それが「不謹慎」なのだと理解している知性。何処にもいけないのは、ここがそんなに悪いところではないと知っているから。環境に、面倒なしがらみに、どこか守られている自分を感じているから。それを振り切って何かを求めに打って出たところで余程の幸運が無いとどうにもならないことに気づいてしまったから。途中で挿入されるLINEスタンプの応酬に唾を吐くような己の存在の軽さはサルトルの嘔吐を彷彿させるような演出だ。肯定と否定を繰り返しながら変化の途上にある彼女たちの世界の、あの瞬間確かにプールに金魚はいたのだ。
プールに金魚を逃がすことと並行するようにして行われたもう一つの「事件」
狭山市から出ていった幼馴染のアイドル海ちゃんがLIVEで「ぷっつんLIVE」と呼ばれるような過激な発言をしたこと。リスクにばかり目を向けて打って出ない奴等への怒りと蔑みの言葉。金魚事件もぷっつんLIVEも、未来へと繋がることのないやけっぱちの憂さ晴らしでありながら、どれもそうせざるを得ない切実さがあった。その切実さに白けた目線を向けるように結局結局…というモノローグが入る。「結局うみはファーストだけ少し売れたけどすぐに深夜番組でも見なくなった」
だがそうだろうか、テレビに出るか出ないかで判断する彼女たちが見る世界は狭山市の空のように狭い。彼女たちの視野には入らなくとも、ライブやトークイベントをして誰かに新たな世界をみせてくれていたりね。そうであったらいいなって思う。自分の立つ場所からは狭く見えても空というのは何処までも繫がっているのだ。
変わりたい、どこかに行きたい、結局どうにもならなかったとしても。言葉とは裏腹な彼女達の願いが台詞に貼り付いている。