映画鑑賞記録:グラディエーター(ネタバレあり)
これは映画の感想と言っていいのか。映画を見てぼんやりと考えたこと…というのが正しい気がする。言わずと知れた名作「グラディエーター」と言っても、私は映画に明るく無いので、公開されて二十年ほど経った今年漸く見たのだが。
聡明で謙虚、足るを知る主人公マキシマスは、物語の序盤で王位継承を固辞する。共和政による支配へとローマを戻そうと計画する皇帝マルクスは、実子コモドゥスではなく有能で人徳のあるマキシマスに帝位を譲ろうとする。しかし、それを告げられたコモドゥスは父を暗殺し、マキシマスとその家族を葬るべく命令を下す。無残にに殺されるマキシマスの妻と子。何とか難を逃れたマキシマスはコモドゥスへの復讐を誓う…という物語だ。
映画を観て胸に浮かんだのは「果たして野心を持たぬ事は良きことなのか」という疑問だ。マキシマスがもしあの時帝位を望めば、もしかしたら妻子が殺められる事は無かったのではないか?もしあの時ルッシラの誘いにすぐに乗っていればクーデターは成功したのではないか?彼は彼の持つ良い特性とされるもの故にその決断を下した。しかし、それは彼と彼の周囲の人間を幸福に導いたのだろうか?
そんなことを考えるのは、私があのような場面に遭遇したらマキシマスと同じ決断を下すタイプの人間だからだ。あんな有能な人間では当然ながら無いし、高い倫理観や己を律する心を持ち合わせぬ怠惰な愚民なのだが、より多くのものを望むより、手の内にあるものを守り、一般的な価値基準ではなく内心の求める豊かさに従って過ごしたい…という判断基準は(全くもってスケールダウンした決断だが)共通しているように感じたのだ。そしてまた、私にとって最も大切で身近な子供たちに対し、今まで良い決断を下すことができてきたのかと悩みの只中にいるからに他ならない。
二人の人物を思い浮かべる。
国会議員の、第三者の卵子を使用した超高齢出産。生まれた子は手術の必要な身体で出産直後にNICUへ。私は当時憤っていた。なぜそこまでして欲した我が子がの側に居ずに仕事を続けるのか。子供という存在の何を欲してあらゆるものを曲げて出産に漕ぎ着けたのか。可能な限り、少しでも長い時を側で寄り添うのが親の誠意であり愛なのではないか。積極的にメディアやブログで発信していたので、折々に子供の様子を知ることが出来た。
そうして数年後、私は間違っていればいたのかもしれない、と思った。驚くほどすくすくと成長した少年がそこにいたから。特権的ともとられかねない手厚い看護、やり手だと思った。しかし、彼女なりのやり方で子供を幸せにしている事は明らかだった。欲しいものを手にし幸福を引き寄せるにはこれくらい逞しくあるべきなのだろうかと考えた。
また別の議員が、国会で詰問されていた。
障害者扶養共済制度を知っているのか、という問いに答える時、彼女は実子の障害の有無を伝えることで説得力を加味することをしなかった。政治の道具にしたくなかったのかもしれない。自身の発言で子供の穏やかな生活を乱す事を恐れたのかもしれない。政治家としてはそこで実子の存在について告げ論破するべきだったろう。だが、母としては…?
全ては憶測でしかないが、私は後者にシンパシーを覚える。戦って自らの居場所を切り拓くという選択肢もある。しかし過酷なファーストペンギンの役割をよりによって我が子に背負わせたいのかと問われれば、二の足を踏んでしまう自分もいる。自らが望むなら兎も角、親がその道に導いてしまうのはどうなのかという疑問、迷い。
そんなことを考えるのは、私にも発達凸凹のある子供がいるからだ。その事をあまり口にしないのは、偏見もまだ多い時代、親とはいえ他人の口から極めてプライベートなその情報を発信することがどんな意味を持つのか測りかねているからだ。
マキシマスは多くの人間から愛された。多くの徳を備え、それを生かすことが出来た。だが、良い性質から導き出された彼の決断の中には、彼の愛するものを死に追いやるものもあった。
一方で、倫理観を無視し己の心に従うコモドゥスが幸福の階段を登ることができたかといえば否である。
愛するものに幸せであって欲しいと願う。しかし、その為には善性だけでは足りないのだ。時に傲慢で自分勝手なふるまいこそがそこへと導く。掌の上のものを守るために、より多くのものを欲する必要もあるのではないか。自分の性質とも度量ともそぐわないそれを求めるべきなのか。いや、過分な野心が身を滅ぼす例えもあるのだ。善悪を超えた己の存在を賭けた決断をするためにはどうしたらよいのか。どう足掻いてもマキシマスはコモドゥスに粛清されていたかもしれない。相容れることはなかったが、マキシマスもコモドゥスも内心に従い観客を魅了し美しく死んでいった。それはある意味では自らを幸せにする行為だ。彼等の望んだ死へと自らを導いたのだから。彼等のヒロイズムは観客にそして多分彼等自身にもカタルシスを齎した。
でもねー!内心を曲げてでも、どんな卑怯な手を使っても、我が子には幸せに美しくなくとも生きていてほしい。だからルッシラの選択に強く共感する。唆し、裏切り、内心を曲げ、望まぬものに従い、振る舞いだけ見れば悪女ともとれるのルッシラだが、彼女がいかに苦しみながらルキウスを護ろうとしたかに寄り添って描かれている。彼女のような人間を男を唆し惑わす「悪女」という視点で描くことも十分できた。そのような選択肢を選ぶ創作者も多くいると思う。だがそうはしなかった。唆し裏切るという行為はそのままに、したたかな彼女の違う側面を見せている。そのような造型をしたリドリー・スコット監督を深く信頼する。
幸せへと向かおうとする時、自らだけでなく、周囲とともにそれに向かおうとする時、どのような選択肢を選ぶべきなのか。堂々巡りの思考はあらゆる決断を益々遅らせ、また私は悩みを深める。そうしてハムスターの回し車のようにカラカラと一人空回りを続けるのだ。