曽野綾子『心に迫るパウロの言葉』神と出会う時
「人は悲しみの中でほんとうにに出会うものだ、
と私は思う。
人間が神と出会うのも、
多くの場合そういう時なのである。
それは、
悲しみの中でこそ、
人は本来の人間の心に立ち帰るからなのである。
だからー
私たちはもしかすると、
悲しさと寂しさの極みまで落ちなければならないのかもしれない。
その時初めて、
私たちは傍らに立つ神と会う。
それが成就なのである。」
・・・
かつて
子どものことで苦しみ泣き続けながらも
どうにか毎日を暮らしていた時
それでも日常は送らなければならず
眠れず
食べれず
ただ不安に怯えるような暮らしをして
どんどん痩せてゆき
顔のふくらみもなくなり
頭蓋骨が透けて見えるほどに痩せていった。
・・・
専門書を読むことも
苦しくて苦しくて
しかし
過ぎてゆく時間を無駄にすることなく
送ってゆかなければと思い
専門機関を訪ねて回り
どうにか
子どものための訓練施設に通うことができるようになっていった。
・・・
子どもには睡眠障害があったのか
12時過ぎても寝ることが少なかったので
私の睡眠時間は
アイドル歌手の睡眠時間だと言っていた。
まだユーモアを失うことはなかったようだ。
カラ元気というやつだ。
・・・
そんな時に出会った聖書の学び。
多くの話をしてゆくうちに
それがカウンセリングのようになったのだと思う。
聞いて下さった方には感謝している。
・・・
誰にも理解されず
家族には頼るものもなく
そんな時には
もう
神にすがるしかなかった。
神を信じるようになることで
自分を保つことが辛うじてできた。
聖書の事を学ぶうちに
自分の核ができてくるのが分かった。
確かな核ができることで
物事においての判断基準が定まっていった。
何が大切なのか。
やらなくてはならないものは何なのか。
・・・
過ぎ去る時間をどのように使うのかは
自分次第。
後で後悔することのないように
懸命に頑張った。
頑張り抜いた。
・・・
そして
聖書を学ぶことをやめてからも
あの時はどうしてあんなにできていたのだろうと思うほど
努力をし続けていった。
・・・
子どもは
人を思いやることができる人となることができた。
それができるのであれば
十分に成功したと言える。
・・・
打ちのめされ
叩き潰されそうになったとき
そばにいてくれたと感じるのは
神の存在だった。
神しかいないと思った。
・・・
曽野綾子の言う
悲しさと寂しさの極みに落ちて
自分の傍らに立つ神と出会った。
・・・
小さきもの
悲しむもの
苦しむもの
の傍らには
いつも
神がいて支えてくださるというのだ。
・・・
今は
神がいなくても
私は十分に強くなり
生きてゆくことができるようになった。
・・・
悲しさと寂しさと苦しさを
受け止めて
そして
受け入れて
そして
強くなったのだ。