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V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』すべてを捨ててすべてを得る

けれども、人間というものは怠惰ですから、なかなか責任を負おうとはしません。
そこで、責任教育がはじまるのです。
確かに、この課題は困難なものです。
責任を認識するだけでなく、責任を自分で担うのは難しいことです。
責任をそして人生を肯定するのは難しいことです。
けれども、かつてあらゆる困難をものともせず、
この肯定を行った人たちがいました。

そして、ブーヘンヴァルト収容所の囚人たちが、
彼らの作った歌の中で、
「それでも人生にイエスと言おう」と歌ったとき、
それをただ歌っただけでなく、
いろいろな仕方で行いにも移しもしたのです。

彼らも、そして他の収容所にいた私たちのおおくも、
同じように行いに移したのです。

しかも、きょう最初に十分にお話ししたように、
外面的にも内面的にも口で言えないような条件の下で
それを成し遂げたのです。

とすれば、こんにち、ほんとうは比べることはできないとはいえ、
比較的ましな状況にある私たちが
行いに移せないわけがありましょうか。

人生はそれ自体意味があるわけですから、
どんな状況でも
人生にイエスと言う意味があります。

そればかりか、
どんな状況でも
人生にイエスということができるのです。
結局、この三つの講演の意味は
いまいったことに尽きます。
お判りいただけたでしょうか。

人間はあらゆることにもかかわらず

ー困窮と死にかかわらず(第一講演)、
身体的心理的な病気にかかわらず(第二講演)、
また
強制収容所の運命の下にあったとしても(第三講演)

ー人生にイエスと言うことができるのです。

自分のおかれている環境や状況を

ただ嘆き悲しむだけではなく

そこにおいても

自分が決定できる意思を重んじ信じることです。


そこにある自分自身という存在

つまり嘆くのか

それとも

生きていくために何をするべきかを問い続け

自分を見失わないような強さを示し続けていくのか

その選択の権利は

他の人には

全くなく

すべて自分自身にある

ということです。


人生に向けて

生きていくという

「イエスと言う権利」を

自分の中に確かに持つということです。

・・・

そうなるためには

本来の自分自身になることが必要であり

自分にまつわる様々な余分なものを

放棄することが必要となります。


その自己放棄ができて初めて

自分が解放され

本当の自分が現れて

改めて自分が形成されるというのです。


つまり

すべてを捨てて

すべてを得るのです。


その時

「人生にイエスと言う」

ことができるというのです。


そこはあるのは

超越した自由の魂の境地です。

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