曽野綾子『誰にも死ぬという任務がある』「週末病」
ひどく疲れてしまって時々動けなくなることがあったという。
作家だけでなく多くの業務を抱えていたころは体中に疲労がたまりすぎていたのだろう。
本当にお疲れでした。
お風呂に入り、歯を磨いて寝ればいいのだ、とわかっていても、それをするのが億劫なほどに疲れるのである。
「週末は、毎週病気になることにするわ。週末病という病名よ」
マッサージをしてくれる人は
「何でもいいから休むことよね」
休むということは必要なこと。
充分に心と体を休ませることが大切だ。
年をとれば、体力や気力に限界が見えるようになって来て当然だ。
私は足の骨折の手術を受けた後、朝何が一番辛かったかと言って、服を着替えることだった。
そんな辛さはそれまで体験したことがない。
体中、うまく曲がらないから服を着替えたくなくなったのである。
台所まで降りて行って、そこで痛み止めを一錠吞むと、三十分後には痛みはきれいに消える。
後はもう、歩き方が多分ギタバタしているのを除けば、まるで健康人みたいになる。
その痛みや不自由を経験したことが財産だと曽野綾子さんは言っていた。
その場その場で何とか生きることが最高と考えている。
・・・
人間の運動機能は誰でも次第に衰えるものだろう。
私が中年になって一番初めに気がついた変化は、重いものを持つのが嫌になったことだ。
どうしようもなくひどく疲れてしまった時には
体を重力に逆らって保つということも難しくなる。
だからこそ
休むことが重要なのだ。
人は弱点から老化する。
高齢一般は、トイレに行くのも、顔を洗うにも、その動作すべてが「何でもない」とは言えなくなってくる。
お風呂に入ることも危険になる。ことに旅に出て、普段使い慣れない浴室を使う時には細心の注意が要る。
病院に入院する老年の人は家で滑って転んでけがをした人ばかりだった。
・・・
外国のホテルでは特に注意が必要だったようだ。
床が滑る。
浴槽の高さが、自分の風呂と比べて高すぎる。
突然熱湯が吹き出る。
変なところに(使用者から見れば必要な)段差がある。
そうして事を事前の見極めれば、かなり用心深くはなるが、こうした配慮がいるということが年を取ることの煩わしさというものだ。
つまり老年には、次々に欠落する機能を、別のもので補完するという操作が必要になってくるのだ。
日常生活の中でも注意して過ごすことが必要となって来る。
気を付けないと。
・・・
ただ私は、老年に肉体が衰えることは、非常に大切な経過だと思っている。
一人の人の生涯が成功だったかどうかということは、私の場合、あらゆることを体験して死ねるかどうかということと同義語に近い。
最も、異常な死は体験したくない。
しかし、尋常な最後はそれを受け入れるべきだろう。
愛されることもすばらしいが、失恋大切だ。
お金がたくさんあることも、けちをしなければならないという必然性も、共に人間的なことである。
子どもには頼られることも嫌われることも、共に感情の貴重な体験だ。
様々な体験をすることで
その苦しみや喜びが
ほんとうに理解できるようにもなる。
すべての体験が貴重であり
必要なことだったと分かるようになる。
人間の心身は段階的に死ぬのである。
だから人の死は、当然襲うものではなく、五十代くらいから徐々に始まる。
緩やかな変化の過程の結果である。
客観的な体力の衰え、機能の減少には、もっと積極的な利益も伴う。
多分人間は自然に、もうこれ以上生きているのがつらい、生きていなくてもいい、もう十分生きた、と思うようになるだろう。
これ以上に人間的な「納得」というものはない。
だから老年の衰えは、一つの「贈り物」の要素を持つのである。
老年の衰えを自分でよく分かるようになることで
その衰えを自分で納得して受け入れることができる。
そうなると
死をも受け入れることも
できるようにもなるというのだ。
死を納得して受け入れるためには
必要な衰えの過程なのだろう。
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