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曽野綾子『誰にも死ぬという任務がある』「最期の桜」

現実に戻って考えてみると、私は一定の年になったら、もう丁寧な医療行為は受けないつもりになっている。
一定の年は幾つか、それはめいめいが決める他はない。
丁寧な医療行為は何を指すか、それもめいめいが考えればいい。

延命治療をするのかどうかを

めいめいが決めておいた方がいいということだろう。

どうしたいのかは自分で決めることだ。

しかしいくら年寄りだろうと、そこにいるのは生きている人間だ。
見捨てていい、と私は言っているのではない。

痛みがあれば取り除くようにし、
食欲がなければ、少しでも食べたいものを思いついてくれるよう家族や友人がいっしょに考え、希望を叶えるのに全力を挙げたらいい。
興味のある話題を共に語り、
何とかしていきたい場所に連れて行くのもいい。
たとえ、一ページしか見る気力がなくても、
本や雑誌を買って来て見せてあげたい。

老人だからといって、医療行為そのものを失すという意味ではない。

できる限りの治療はするべきだ。

その間にも季節は移り行くだろう。
人間はすべての人がいつか「これが最期の桜」を見ることになるのである。
私に知人が入院していたホスピスでは、病人の息子が花見の計画を立て、車で迎えに来てくれて隅田川のほとりをドライヴする日程が決まると、その時間帯には点滴の針を外して遊びを第一にしてくれていた。

予定通りの栄養剤の量が入らなくても、息子と最後の花見をする方が大切に決まっていたからだ。

最期の桜を見ることができる人は幸せだ。

桜を見ることを叶えてくれる家族などがいるという点でもほんとうに幸せだ。

途方もない手厚い看護のためにお金と人手を掛けてまで老年を長く生き延びることを、私は少しも望んでいない。
適当なところで切り上げるのがわたしの希望だ。

行き過ぎた延命治療を

するべきなのかどうかということを言っているのだ。

それは責任を持って、当人と、当人を愛していた家族が決めればいいのである。
そしてその結果を病院の責任にしたり、すぐ法的な裁判に持ち込まないような社会風土を作るより仕方がないのである。

体にたくさんの管を繋げば

生きることは

できるかもしれないけれども

果たしてそれが最善の方法であるのかは

よく分からない。

しかしとにかく普通の病人は、病気に罹ったら、医師にかかりたい。
その希望を叶えるのが、文化国家の最低の条件である。
それでも私はこのころ違うことを考えるのだ。
老人は自ら納得し、自分の責任において、或る年になったら、自然死を選ぶという選択がそろそろ普通に感じられる時代になっている。
これは自殺ではない。
ただ不自然な延命を試みる医療は受けない、ということだ。
そして万物が、生まれて、生きて、再び死ぬという与えられた運命をごく自然に納得して従うということは、端正で気持ちのいい推移なのである。
それには、いつも言うことだが、その人の、それまでの生が濃密に満ち足りていなければならない。
思い残しがあってはならず、自分のたどった道を「ひとのせい」にして恨んではならない。
人は老年になるに従って、具合の悪いことを他人のせいにしがちだ。
死ぬまでの人生の舵を取る主は自分だったと思える人は、
或る時、
その人生を敢然と手放せるはずである。

自分の人生の舵は自分が取る。

それができていれば

納得して

最期には

その人生を手放すことができるという。


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