曽野綾子『(私の実感的教育論)絶望からの出発』真の緊張
真の緊張は
必ず自然な弛緩をともなうものである。
人間は緊張しっ放しということはない。
むしろ弛緩の方法を正しく知るものだけが、
本当に張りつめることができるのである。
真の緊張と弛緩を知ることが
それぞれの本質を知るということになる。
又、
たえず緊張して
人間と世の諸相を本気で見つめていれば、
そこに自ずと、
個人の能力の限界があることを覚えるようになる。
そこでその時、
初めて人間は、
自分を解き放ち、
又、
折を見て
しめあげる
二種類の操作を
自由になし得ることになるのである。
真の緊張の上で
物事を見つめることで
自分の能力の限界を知る。
自分の能力の限界を超える時には
十分に休むことや
できる能力のある人に頼ることになる。
そこで
緊張と弛緩の二種類の操作ができるようになることが
ほんとうの自分自身を知るということになる。
つまり
自分が
できることと
できないことを
知るということ。
自分を客観視できるようになると
解放を感じるとともに
自由となる。
緊張の訓練を受けなかった人間はむしろ病的である。
趣味的、乃至は外見上の尊厳が伴わない、
などということではない。
緊張のない人間は、
逆に
本質的に精神のために、
ゆったりとしたスペースを自分の中に用意できないのである。
反対の緊張を知らないということは
本当の精神の弛緩を知らないということになる。
つまり
自由にゆったりとした開放感を知ることができないということだ。
すべては比較の問題となる。
比較することができて初めて
緊張と弛緩の本質が理解できるというのだ。
緊張と弛緩を
自分の中に持つことが
精神の自由を獲得する手段となる。
その規範を作るのは
自分自身しかない。
自律というのは
こういうことだろうか。
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