読書記録_木になった亜沙

『木になった亜沙』
今村夏子著

 「木になった亜沙」「的になった七未」「ある夜の思い出」の3編。
 どのお話もなんとなく少し物悲しい。非現実が現実にじんわりと入り込んでくる。非現実は、登場人物たちの主観によるものかもしれない。そして、淡々とした筆致とシュールな面白さ。『むらさきのスカートの女』と同じ路線で、今村夏子さんらしい作品だと思う。

 「木になった亜沙」の亜沙は、絶対に手から食べてもらえず、作ったものも食べてもらえない。「的になった七未」の七未は、絶対に何かを当てられることがない。この2篇は渇望の物語だ。
 自分以外の人が、なんてことなくできていることへの渇望。亜沙が木となって、割り箸として使ってもらえたときの感動が身に沁みる。たった一言、「食べた」の段落の安心感。ひとによってそれぞれだろうけれど、何かしらの報われたときの記憶が呼び出される感じがする。

 若者は亜沙の腕をつかんで縦に割った。パキッ!  と良い音がした。それが始まりの合図だった。わりばしの亜沙は何をどうすれば良いのか知っていた。大きく息を吸いこむと、ひろげた両手を温かいごはんの中にためらいなく突っこんだ。そして一気にすくい上げる。わ ー、と若者が口を開けた時、亜沙も一緒に「わーい」と叫んでいた。
 食べた。
 口から両腕を引き抜くと、休むまもなく今度はからあげに手を伸ばし、それをつかんだ。からあげも食べた。

『木になった亜沙』 今村夏子

 七未もまた、射的の景品扱いされ、自称息子が打つことで、最後には当てられることができた。当たってみんなと同じになりたい、逃げるのを終わりにしてごほうびをもらいたい、という望み。この望みは死を望むことと同じだったのだろうか。もちろん、こどもの頃の「当たりたい」は、みんなのようにおやつをもらった方がいい、逃げるのは疲れるというひらめきによるものだった。けれども、最後には、明らかに死が救済とされている。息子との再会を願っていたのに。
 息子とずっと会っていない七未は、息子に見つけてもらわないと誰だかわからない。彼女にとっては、息子に「お母さん」と呼ばれて、文字通り再び会えたことだけで満足だったのか。

 空の上では、先に死んだみんなが、七未がくるのを今か今かと待っていた。はやく、はやく、ナナちゃん、はやく。
 ようやく七未が到着すると、みんな一斉に七未の元へ駆け寄ってきた。
「やっと終わったね」
「よくがんばったね」
 そう言って、七未をぎゅっと抱きしめた。

的になった七未 今村夏子

「ある夜の思い出」は、ゴロゴロすることに執着した女の子の物語。這いつくばっている人の目線で描かれる街が面白い。この女の子も、ゴロゴロしたい、猫のように暮らしたいとは思っても、猫になりたかったわけではないから、ふつうに真っ当に暮らしていくのだと思う。息子が、猫を飼いたいといったらどうするのだろう。またジャックを思い出すだろうか。

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