会話の違和感に気が付くと。
2週間ぶりの電話で、母に近況報告をした。
「こどもたち3人と夫くんが順番にインフルエンザになってね…」
と話していたら、
「あー!それは最後にもちゃがなっちゃうね!!大変だぁ(笑)」
と、なぜか母は、明るい声で断定的に言いきった。
いつもなら、
(え?なんで?なんで「なる前提」なの?)
と、喉まで出かかった本音を飲み込み、
「ねぇ~…。たしかにね。なりそうだよね。やだなぁ。なりたくないなぁ。」
なんて、笑って返事していたんだけど、今回は何の躊躇もなく本音のままに言葉を返した。
「え?ならないならない!私かかるつもりないよ?なんで「なる前提」なのさ(笑)私はインフルにならないし、大変にもならないよ。」
私の濁りのない言葉に、母は特に反論するわけでもなく、
「そうね、そうだね!」と笑っていた。
一見、他愛のない会話のように見えるけれど、以前の私にとって、実は結構ストレスだったのだ。
・なぜか未来を決めつけられている
・勝手に私の意見を想像した上で、それを事実と捉えて話してくる
・私の言葉の奥は見ようとせずに、主観で意見を伝えてくる
・言葉の端々に、私に対する心配や不満を感じる
そんな母の話し方に、今まで疑問を持たずに生きてきた。
そして、私自身も、
・どんな言葉を言われても私は笑って受け流せる(そんな器の大きな人なの!)と思い込んでいた
・相手の言葉の使い方によって、自分が強くストレスを感じたり疲れるとは思っていなかった
・心配や束縛も愛情である(私は愛されている)と感じていた
これらの傾向が強かったために、会話の違和感になかなか気付けなかったし、
「相手が心地よく話せる」ことが私の長所だとも思っていたのだから改善する気もなかった。
ただ、「自分が心地よく話せていない」のは、自分でも薄々気づいてはいたのだ。
そして、電話を切った後に、なぜかいつもモヤモヤした気持ちが残ったり、やたら疲れが溜まっていることもあった。
その理由が分かったのは、親子になって30数年経ってからだった。
自分と相手の会話を主観で捉えずに、そのまま書き出して眺めてみることで客観視することが出来た。
その客観的視点を、さらに人に話してみたら「それは嫌だよ」と素直な感想をもらい、
「これは嫌だと思ってもいいよね」と自分の中で認識することが出来たのだ。
中には、「え?そんなの思ってることそのまま言えばいいじゃん(笑)」と、何の躊躇もなく伝えてくれた人もいた。
「あ、そっか。そのまま伝えてみたらどんなリアクションになるんだろう…。」と今までの自分の対応に対して疑問を持つこともできた。
そう。
実は、私が母に対して嫌だと感じていた「なぜか未来を決めつけている」を、私自身も人に対して、してしまっていたのだ。
この事実に気づいた時には恥ずかしくて「やだぁぁ~」とありもしない穴に隠れたくなったけれど、
相手に対する不満や違和感の中には、自分が人に対してやってしまっていることも意外と紛れているのだ。
会話の違和感に気が付き、何に違和感を覚えるのか考えていくことで、相手と自分の話し方や思考の癖が見えてくる。
そうすると、自分が相手にどんな不満や不安を持っていたのか、本当はどうして欲しかったのか見えてくるし、「じゃあ今度はこうしよう!」と対応も考えられるようになる。
話は戻るけれど、私は今まで母と話す時に、本音を飲み込みながら相手が心地よく話せるようにしていたから疲れていたのだ。
そこに自分で気付いていたからこそ、今回は何の躊躇もなく本音のままに言葉を返した。
そして、その時に何も嫌な気持ちになることは起きなかった。
おかげで、母と話すことが私にとって疲れることでもストレスかかることでもなくなってきている。
会話の違和感に気付いてしまうと、一瞬は不快な思いになることもある。
でも、そこをひとつずつ丁寧に見ていくと、不快は薄れていくし、不快が強くなるのならば距離を置きたくなる。
そうやって自分の心地良さを確かめていけるのだ。
なーんて、こんなことを1年前の私は到底思えなかったのだから、人はいつからだって変われるんだなぁと心底感じている。
1年前の私!!!
自分の違和感を無視するな!!そこ!!そこ大事だよっ!!!
って今の私から伝えたい。