2023年と12枚の写真
年の瀬、みなさんの「今年の月々の一枚」をまとめた投稿を見る時間が好きです。その人その人の過ごした一年という時間がぎゅっと凝縮されているようで、最後まで見ると必ず心がじんわりする。わたしもまとめてみたかったのですが、優柔不断な自分には到底できないなとここ数年諦め続けていました。
だったのですが、今年はなんだかできる気がして、セレクトしはじめたのですがいざ選ぶとなると「一枚だけ、なんて無謀では・・・?」と絶望しました。これもいいな、あ、こっちもすき、なんて月によっては10枚以上候補を挙げてしまうことも。途中、やっぱり一月あたり3枚にする?なんて甘えたことを考えたりもしました。
けど、多分これは一枚選ぶことに意味がある。そう言い聞かせてなんとか選びましたので、見ていただけますと報われます。
一月
どこのシュトーレンか、なぜこのタイミングで食べているのか、なにひとつ覚えていません。シュトーレンはすきです。
二月
落ちた椿の花の上にだけ、雪が溶け残っている。雪の宿みたいなまだらさが、きれいだけど淋しくてすきな一枚です。もうすこし寄った写真や、構図を考えて撮ったものもあるのですが、見返してみるとぱっと撮った全体がわかるこの写真が一番いいなと感じました。
三月
生活の中に潜む光を見つけたとき、そしてそれを思った通りに残せたとき、とてもうれしくなります。黒のジャケットを洗濯してサンルームに干していたのですが、生地の表面のすこしの毛羽立ちが輝いていた一枚。
四月
母の生家にて、母と水仙。来年もこの水仙に会えることを心の底からたのしみにしています。
そしてこの写真、いつもNikonD90で撮ったものと勘違いしてしまいます。
五月
バラ園隣の公園での一枚です。平日の夕方、フィルムデータの受け取りをしたくてすこし早めに仕事を上がった日でした。公園もバラ園も平日なのに賑わっていました。写真は、ちょうど虫の群れに光が差し込んでいた様子です。普段生活していると見ることができない世界の中で、一人取り残されたような、けどあたたかい時間を眺めた記憶が虫たちのきらめきに詰まっています。
六月
紫陽花がたくさん咲いている場所なのですが、紫陽花の写真ではなく、この、おそらく折れて間もない大きな木枝の写真がなぜかすきです。日没直前、すこし薄暗いなかで撮ったのでブレてもいますが、なぜかすきです。
七月
ひまわり畑で写真を撮ることが苦手なのですが、今年はすきなひまわり畑を見つけてしまい仕事の行き帰りに時間をみつけて何度が通いました。ものすごく広くてひまわりと同じ背丈の雑草たちが生い茂っているのですが、とてもタイプのひまわり畑でした。ひまわりは後ろ姿がいちばんすきです。
八月
八月は悩むほど写真が多くありませんでした。「いつもの海」での一枚。普段夕方に足を運ぶことがほとんどなので、早朝の海はまるで別人のようでした。
九月
生前祖母が使っていた折りたたみの日傘を譲り受けることになりました。わたしは使っていた祖母の姿を覚えていないのですが、母はよくよく覚えているそうです。写真では消していますが祖母の名前が二箇所、油性ペンで書かれているところがお気に入りです。
十月
枝垂れ柳が風でゆれる度、一枚一枚の葉がきらきらと輝いていました。降りそそぐような大きなこの木がすきで以前も何度か撮ったことはあったのですが、はじめて「ちゃんと撮れた」と思いました。
十一月
写真展に伺った際、同じ敷地内にある芝生広場での一枚です。こんなに秋らしい秋を北陸で長く感じることができる珍しい年だったと思います。
みなが思い思いの休日を過ごしていて、「なんて平和なんだろう」と何度も口にしました。
十二月
「目があった瞬間」みたいなものを残したいと思っているのかな、と最近考えています。そういう瞬間、わたしは対象にきちんとピントが合っていないことが多い気がします。
おわりに
四月からは彼に借りているNikon D90を頻繁に持ち出していました。また、夏以降は「すきだけど公に出す写真ではないな」と思う写真が一気に増えました。きっと未来のわたしにとって宝物になるんだろうと思います。
一年の中で一万枚を超える写真を撮って、わたしの手元にはデータという膨大な負債がたまりにたまっていて、現在進行形で彼から「はやく整理せい」と圧をかけられています。年末年始にできるといいな。
苦しい時間も多かった今年ですが、それでもたくさんの写真を撮ることができたことが本当に有難いです。いつも写真がわたしを支えてくれていて、なんとか生きていけています。
暦上の一年の終わりに対して思うことは少ないのですが、明日も明後日も写真が撮れる自分でいられるようにと祈っています。いつか救うことができるかもしれない、わたしを含む誰かのために。
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