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日々、波を撮っている。

「何を撮っているの?」

「趣味はカメラで写真を撮ることです」と言うと、大抵この質問がやってくる。この質問がきた場合、ほとんどの質問者はカメラにも写真にも興味がない。興味がある場合は使用カメラやそれに付随する詳細なことへの質問が飛んでくることが多いし、なんとなく質問の間が違うからすぐにわかる。

つまり、この「何を撮っているの?」という質問に意味はほとんどない。意味はない。わかってはいても毎回「ええと、」と詰まってしまう自分がいる。ええと、わたしは、何を撮っているんだっけ、と。

自分が撮っているものがわからないなんて、そんなおかしな話あるはずない。やりすごすためにとりあえず「お花とか、海とかよく撮ります、あと食べ物とか…」と答えるのだけど、体裁を整えれば整えるほど腑に落ちない。

答える度に(そうだけどそうじゃない)と心にもやもやが溜まっていく。では(そうじゃない)ならば、相手に伝えるかは別として自身が納得できる答えをはっきりさせておくべきな気がする。そうすればいつもどおりの回答をしたとしても、もやが溜まることはきっとない。

ということで、ここ数年撮り続けているホットケーキの写真を元に(そうだけどそうじゃない)の理由を考えてみる。

「ホットケーキ」を撮っている?

2020年の4月からずっと、毎週日曜日に朝食としてホットケーキを焼き続けている。2020年~2021年はその写真を定期的に(最初の頃は毎週月曜日に・・・今は到底できない)ツイッターに載せていた。

この写真たちを前提に「何を撮っているの?」と問われたとしたら、回答としての「ホットケーキ」に間違いはない。どうみても主役はホットケーキだ。けど、撮影者としては「毎日曜の朝食の時間(≒ホットケーキの時間)」という回答が最もしっくりくる。
この場を主に担うわたしと彼はこの時間に救われており、大げさではなく生かされていると感じている。平日を乗り越えた先にあるこの時間、綻んでしまった自身の心を修復している。それはただホットケーキを食べることのみによるのではなく、ホットケーキをいかに焼き上げるか試行錯誤する過程・彼が珈琲を美味しく淹れる過程、そしてそれを互いに讃え合うこと、これまでとの差異について話し合うこと、アレクサが口ずさむharuka nakamuraの音楽の揺らぎ、居室の窓から降り注ぐ光、それら一連のすべてによって行われる。

それは、確かにそこに在るけど写真に写るわけではない糊代のような部分。けれどその部分がないとこの写真は存在し得ない。当初はそれを「定期的に載せるという手段」や「キャプション」で補う傾向にあったと思う。

実際当時のわたしはそれを意識して写そうとしていなかったし、そういった捉え方(まなざし)は滲み出るものとも思う。そうじゃないとそれは途端に演出になり、技術を持たない私が行うとちょっと説明的な記録として野暮ったくなってしまう。

ホットケーキ(物)とホットケーキ(出来事)

物と出来事の違い、それは前者が時間をどこまでも貫くのに対して、後者は継続時間に限りがあるという点にある。物の典型が石だとすると、「明日、あの石はどこにあるんだろう」と考えることができる。いっぽうキスは出来事で、「明日、あのキスはどこにあるんだろう」という問いは無意味である。この世界は石ではなく、キスのネットワークでできている。

『時間は存在しない』カルロ・ロヴェッリ

これは、ループ量子重力理論を提唱した理論物理学者であるカルロ・ロヴェッリの著書『時間は存在しない』に記された一節。同じ章にこんなふうにも記している。

「物」はしばらく変化がない出来事でしかなく、しかもそれは塵に返るまでの話でしかない。

『時間は存在しない』カルロ・ロヴェッリ

わたしは「ホットケーキ」を「物」ではなく「出来事」として捉えている。だから「何を撮っているの?」に対して「ホットケーキ」と回答すると自身の中でズレを感じてしまうのだ。

現にその考え方が色濃くなっている最近は、以前よりも完成したホットケーキの綺麗な姿を残した写真が減っている。もはや写っていないこともある。

写っている物は「食後のお皿」でしかない。けど、私にとってはこれまでに本記事で引用したツイートの写真と同じ「ホットケーキの時間」を撮った写真。それは必ずしも第三者に伝わるわけではないし、伝わる必要はない。ただ、もし、「きっと大切な時間を捉えたのだろう」ということが誰か一人にでも伝わるかもしれないこと、それだけで十分なのだと思う。

日々、波を撮っている。

どんな「物」も何かによって生じ、いつかは消える。永遠に同じ状態のまま在り続けることはできない。そんな気持ちで海も、お花も、食べ物も、撮っている。人間だって同じで、その人間によって海・花・食べ物に起こる何かもあって、それもまた、撮っている。そして撮っている私もまた同様で、同じ状態ではない一人の人間が撮り続けることによってその揺れが写真には写る。

それはつまるところ「波」なのかなあと、ふと思う。「波」はさまざまな要素によって起こる水面の動き(出来事)。生まれては消えてを繰り返し、同じように見えてもすべて違う。その波を形成する水も、その波自体の形状も、いつも違う。

自身の周りで起こる「波」を日々撮っている。ただそれだけなのだと思う。どんな「波」を撮りたいと思っているのかということはまた別の話で、これからまたすこしずつ考えていこうと思う。進める限り、一歩ずつ自分の足で進んでいくしかない。

これからも「何を撮っているの?」と聞かれたら「お花とか、海とかよく撮ります、あと食べ物とか…」ときっと答えるだろう。けどもやもやはもうしない。日々、波を撮っていることをわたし自身が知っているから。

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