ミニマリズムと自分のサイズ
ミニマリスト、そんな中でも ”究極” と呼ばれるレベルのミニマリストが存在する。そんな限りなくゼロに近いところまで所有する物質を削ぎ落とした人達に憧れたりもする。でも結局やっぱり自分には無理という所に落ち着く。
子供の頃、親の転勤で平均2年ごとの引っ越し、転校を繰り返していた。小学校3校、中学3校の転校。高校も途中で親元を離れた。その都度、子供ながらにも持っているモノの取捨選択に迫られる。分け与えられるダンボールの数にも限りがあるので、必然的に毎回結構な数のモノを手放す。おもちゃ、漫画本、服、靴・・・。そしてそれまでの人間関係(友達)も切り捨てて次の土地に向かう。そして新しい土地に着いたらリセットスイッチを押す。
この経験で得たモノは少なく、失ったモノの方が多い。強いて言うならば、自分の持ち物の種類やサイズ、優先順位を常に把握するという癖はついたと思う。それをしてないと、やがてくる次の引っ越しの時の荷造りがめんど臭いというのが最大の理由。
そんな感じで大人になり二十歳を過ぎた頃、一人暮らしで実行していた事がある。
ヘインズの白いTシャツ6枚
革ジャン一着
トレーナー3枚
ジーンズ2本
下着、靴下少々
これだけで一年回す。
洗濯は週一回。
仕事は、昭和では当たり前のブラックなデザイン事務所だったので服装はこれでオッケーだった。
食器は中が分割されてたプラスティック製で、米、おかずが一枚の皿で配膳出来て、あとはスプーンとフォークだけ。ほぼ終電の残業か徹夜なのでアパートで自炊する事もほとんど無かったけど。
その頃、使っていたベッドはキリンビールの瓶12本運搬用のプラスティックケースを並べて繋げたモノ(当時貧乏な若者の間で流行っていた)。でも個人的にはそれすらも邪魔だと思っていていつか寝袋にしようって思っていた。
そんな矢先、アメリカ行きが決定。
僕をアメリカに派遣する前提で雇ってくれた日本の会社から、必要なモノは海外運送で別送するからダンボールに入れて用意しておけ、と言われたが、手持ちだけでいいですと断った。
そもそも大してモノを所有してなかったのと、アメリカ生活が未知過ぎて一体何を持って行っていいかさっぱりわからなかった。実際持って行ったのはウォークマンとカセットテープ数本、そして着替え・・・小さなスーツケース1個で中身はスカスカで軽かった。
そんな訳で、ミニマリズムとかミニマリストなんて言葉を知る随分前から、まあまあミニマルな生活をしていた訳ですが、その後アメリカ生活も安定期に入ると徐々にモノが増え始める。
まず最初に増え始めたのが趣味の音楽に関係するもの。CDやカセット、そしてギター、それから中古レコードは今とは違い信じられないくらい安かったのでレコードまで手を広げてしまった。
レコード→カセット→CD→ダウンロード→音楽配信、という時代の流れで、現在でもCDとレコードの間をウロウロしている。結局、昭和育ちはモノとして所有する事でしか自分の身になった気がしない性質なのか?
アメリカ生活安定期では、当分引っ越さないで良さそうな安心感、おまけにアメリカの家はデカイので(ウチは平均より小さいレベルだったけどそれでも広い)自然とモノが増える事に対して油断するというか、コレクター気質全開というか、生涯で最高の物量を所有する事になっていった。
それでもピークにモノが多かったときから比べると少しずつレコードやCDも減らしているのだが、ミニマリスト系の配信記事などを読んでいると「ただただモノを減らすというよりも、自分の気に入ったモノ、必要なモノを厳選して豊かに暮らす事です」みたいな事が書いてあって、まさにその通り!とは思っているんだけど、そのバランスは難しく自分の所有物の量とそれによる息苦しさって寄せては返す波のように変化する。
そんな中で、書籍類のミニマル化は自分でも成功した方だと思っていた。一時大量にあった書籍類は大量に処分して、また必要になれば電子書籍キンドルで書い直すというというコンセプトのもと軽く500冊以上を処分した。何十年もかけて集まった書籍だった。
そしてキンドルのペーパーホワイトを手に取るたびに「一体ダンボールいくつ分の本がこの小さいペラペラなデバイスに収納されてるのだ?」と考えてはニマニマした充実感に浸っていた。
でも自分の中にある喪失感を再認識してしまう。日本の大型本屋。日本に長期滞在する機会があった時になんとなく訪れた大型書店。圧倒的な物量と種類を目の当たりにした時、身体の内側から感じるウキウキした感情。綺麗な装丁、洗練されたデザイン、色彩、手に取った時に感じる厳選された紙質・・・・。
将来、自分が最後に孤独な漂流老人になった時を想像すると、持て余すような量のモノを持ちたくないという考えは変わらない。最後はコンパクトな最新デバイス一個に書籍や音楽、重要な思い出などを全部詰め込んでバック一個でどこにでも漂流できる準備は必要だろうなあと思っている。
でも今現在、シャワーを浴びたあとパンツ一丁で鏡に映る自分の姿を眺めると、そこに映るのは貧相な体つきの還暦過ぎた男でしかないわけだ。なので今のところは、物質的なモノも含めた自分と自分を取り巻くモノで自分のサイズを形成すことで心の平穏を保つ時期なのではないか?と思っている。
そして、まだまだ自分は究極のミニマリストにはなれないと自覚するのだった。