誰かのためを思えるなら、「死にがい」なんていらない
「これは青春群像劇なんかじゃない。ホラー小説だわ……」
朝井リョウ著の「死にがいを求めて生きているの」を眺め、私はため息をついた。
本書は、とあるできごとがきっかけで植物状態になった智也と、彼を見守る雄介を中心に進む物語である。
彼らが生きた時代は「平成」。著者の朝井リョウさんも、これを書いている私も、同じ時代に青春を過ごした。
通信簿が相対評価から絶対評価へ、定期テストの順位の張り出しはなし、ナンバーワンよりオンリーワン……
一見すると、順位を決めないことは優しい世界のようだ。しかし、自分で「目的」を見つけられないと、どこまでもゴールが見えてこない。ゴールのないマラソンなんて、想像しただけでゾッとするだろう。
それでも、学生のころはよかった。「運動神経抜群」「クラスのリーダー」わかりやすいラベルを付けようと思えば付けられたのだ。
しかし、大人になるにつれて、「周りの求められていることが分かり、行動できる」などのように、ラベルはどんどん複雑になっていく。彼らはその世界でもがき続けている。そして、私はその気持ちが痛いほどわかってしまう。
これを読んでいる私は一応大人だ。大人になったからこそ気づいた。「目的と手段が入れ替わる」彼が間違ってしまったのは、どこまでも「自分のため」だからだ。
「自分のために」なんか目立ちたい。なんかキラキラした人になりたい。「なんか=生きがい」は“なんか”が失われたら、そこでおしまいだ。
本当に「誰かのため」を思った行動ならば、例えその目的が失敗に終わっても、“生きがい”そのものは無くならない。「大切な誰か=生きがい」だからだ。
ページをめくるたび、自分の青春の古傷をこじ開けられたようで身震いする。
子どもを叱るとき、大人の都合になっていないか、子どものためになっているかを自分に問う。
文章でお金をもらうとき、身内が楽しいだけのものではないか、読者のためになっているかを自分に問う。
今でも「自分のため」になりそうな自分の頬をバチンバチンと叩かなくてはいけない。それを再確認させられた本だった。
私は運良く「誰かのため」にと思える人が現れた。でも一歩間違えれば、私も彼のようになりかねない。
早く目を覚ましてくれ、と私は祈るように本を閉じた。