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最後まで読みたくなる文章とは?

最近、noteに書くことがジャーナリングの時間になっている。

誰のためでもない、自分のために書く時間は心地よい。

誰かの反応に期待するでもなく、自分の心が解放されていく感じが

たまらなく心地よい。

私は本を読むのは好きなのだけど、誰かのブログを読んだりすることは
あまり無くて、

興味があって読み始めることはあるけれど、最後まで読み切れる人は
本当にわずか。

あぁ、この人の文章はスラスラと入ってくるなぁと思う人も居れば
自分にとってはなかなか入ってこない文章もある。

きっと私の文章も読む人によってそう感じるのではないかと思う。

その人の書く文章って読みやすいのがいいとか悪いとか
体系立てて書かれているのがいいとか悪いとかでは無くて

その文章はその人そのものだからどんな形であってもいいと思う。

論理的な内容が好きな人もいれば、エッセイのような形の方がスッと入ってくる人が居るように

自分が発信する方法も、インプットする方法も色々あっていいのだと感じる。

友人と話していて「ゆうかさんは感覚的に書いているんですね!」
と言われてハッとした。


そうそう、感覚的に書くことが私らしい。

だから「呼吸するように書く」というのがとてもしっくりくる。

何か文章を書くということにも世の中には「型」が出過ぎているような気がする。

その型は誰かに読みやすくするためなのか?
ライティングの掟のようなものなのか?

読みやすくされた文章であっても
最後までたどり着くわけではなかったりして

それが不思議だ。

心に留まる文章は、きっとノートに殴り書きにされていたとしても
思わず食い入るように最後まで読んでしまうものだ。

最近はAIが優秀な記事を書いてくれたりするらしい。

ただ、たいていそういう内容の記事はAIが書いたであろうと
気づいてしまうし、

文字なのに、その人らしさが滲み出るのが文章の面白いところだと思う。

私も「今日はこういうテーマで記事を書こう」みたいにして
書いていなくて、書き始めて出てきたことを
書いている。
まさにジャーナリングと同じような時間。

そんな文章を今日も最後までお読みくださっている方は
何か共鳴してくれているようなご縁を感じるものです。

お読みいただき、ありがとうございます!























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