大舘のアメ事業⑤ 事業開始の前夜に悲劇は起きた
MNHの小澤です。
秋田・大館市で、消えゆくアメ事業を引き継ぐと決めたぼくら。
物件も買った。機材一式を運びいれた。人材も雇って修行をさせている。
「さて、どうやって改装しようか?」というところで、悲劇は起こった。
————事業がストップしたのだ。
いや、中止せざるを得なかった、という方が正しいかもしれない。
理由は、ひとことでいえばMNHの経営悪化だ。
ぼくらはちょうどその10月に「縁日家やまがた(*1)」をクローズしたところだった。
「小売店はやはり難しい」という教訓のもと、MNH全体の事業を縮小する方向にむかっていた。
そして、当然ながらMNH全体の事業のテコ入れも始まり、秋田のアメ事業も見直しをせざるを得なくなったのだ。
この事業は、とにかく購入した古民家を改装しないと始まらない(*2)。
実際に改装するとなれば3000〜4000万は軽くかかるだろう。
そんな莫大な費用がかかる上に、この先、修行してもらっている女性を現地に住まわせる費用もあり、現時点で有力な企画もない。売ったとしても売れる保証もない……
経営が悪化している中で、置かれている現実と照らして冷静にこの事業の検討をした。
やはり、推し進めることはできないと判断するに至った。
そして、改装手前で泣く泣く断念することになってしまったのだ。
————しかし、完全に火が消えたわけではなかった。
なにせ、物件も登記して、1人の女性に修行してもらって、ここまでやってきた事業だ。
この時点で、MNHは山形の庄内町に工房を持っていた(*3)。
その工房の隣の工房が空いていたので、「そこでアメも作ったらどうだろうか」と思いついた。
そしてもし、事業が軌道に乗ったら、また大館に戻り、アメ工場を本格的に作ればいい…
そんなふうに考えたのだ。
結局、彼女には、庄内に移り住んでもらった。もちろん、住居の手配はぼくらが手伝った。
時は既に2016年3月。
彼女がアメの修行を始めてから、既に1年程が経過していた。
ーーーそして、もうひとつ。
今でも鮮烈な記憶となってぼくの心に焼き付いていることがある。
大舘から庄内への「機材一式の引っ越し」だ。
この引っ越しは、業者に頼むことはせずに、もうぼくら自身でやった。
引っ越し当日、ぼくを含め社員3人でレンタカー(ハイエース)を借り、例の物件に着いた。
年季が入ったアメの機械は、めちゃくちゃ重く、人の手では到底動かせないシロモノだった。
台車も用意していなかったので、「どうしよう…?」としばし考えた。
「そうだ、先人の知恵だ!」と思いついたのが、丸太のコロ。
丸太を並べてその上を転がして重い機材を動かしたのだった。
その日は最悪なことに、ザーザー降りの大雨。
幸い付近には丸太がいっぱいあったので、拾っては並べ拾っては並べ、ゴロゴロゴロゴロ…
その昔、エジプト人がピラミッドのために巨石を運んだごとく(笑)、延々そんなことをやり続けた。
最大の難関である、車に載せる時には、てこの原理を応用した。
要は小さい力で重いものも動かせる方法で、3人がかりでやっとこさ、機械を車に積んだ。
そして、「さぁ行こう!」とエンジンをかけた。すると動かない。
あろうことか、タイヤがパンクしていたのだった!!
スペアタイヤに替えた頃には、もうみんな雨でビショビショになっていた。
がくがく震えながら、大館の温泉に入り、それから庄内へ車を走らせた...
4時間半ほどかかって、ようやく機材を庄内の工房へ運び入れたのだった。
(つづく)
(*1)調布の本社で開いていた山形の食材雑貨店
(*2)ちなみに、菓子製造の許可を取得するためには保健所が定める内容の設備にしなくてはならない。保健所に事前相談し、何度か通い確認しながら物件の改装を行う必要があった。
(*3)MNHは庄内町の工房で玄米コーヒーをつくっていた。修行をしてもらった彼女を配置転換して、アメ事業を続けようと考えた。