サイコロで必ず6を出す男:銅冶勇人と「CLOUDY」の挑戦
「推したい会社について執筆いただけないでしょうか」とnoteの方から依頼を受けた。
いやいや、そんなこと言われても、簡単に思いつかへんって。
しかも、「社会によい取り組みをしている企業」じゃないとあかんのか。
うーん。うーん。うーん。あっ、あったわ。アパレルブランドの「CLOUDY」の話を書こう。たしかにアフリカ支援の活動やし、社会によい取り組みやん。よしよし、これでいこう。
脳内の声(関西弁)が思わず漏れてしまった。
ここから、「僕はCLOUDYを推しています」と書いても信じてもらえないだろうが、僕がこの会社を全力で推しているのは紛れもない事実である。
代表の銅冶勇人という人物が、なんとも味わい深い男なのだ。
あかん。いつもの癖で、呼び捨ててもうた。
彼は会社の後輩だったので、「銅冶氏」とか「銅冶さん」と呼ぶのはむずがゆい。初めて会ったのは、当時働いていたゴールドマンサックスの新卒採用面接だった。
彼が学生で、僕は面接官。面接会場に現れた銅冶勇人は強烈な存在感を放っていた。
「自分は必ず6を出します」
グループ面接で「サイコロを2個転がしたときに一番出やすい数は何か?」という質問をしたとき、彼は「12です」と即答した。
もちろん不正解だ、統計学的には。
面接の場には、奇をてらった答えを言って目立とうとする学生が少なからずいる。僕は冷たく返した。
「12になるには2つとも6のときだけど、本当に出やすいかな?」
彼は物おじせずに身を乗り出すと、力強く主張を繰り返した。
「ここぞという場面で、自分は必ず6を出します」
僕は苦笑していたかもしれない。容赦なく彼を選考から落とした。
僕の所属していたトレーディングデスクでは、さすがに確率や統計ができないと業務に支障をきたす。
もう会うことはないと思っていたが、次の年の4月、彼と会社で再会した。営業職で採用されていたのだ。アメフトマンの彼は、1年前と変わらずマッチョで優しい目をしていた。
しばらく一緒に働くうちに、意外な一面が見えてきた。
アフリカで、学校建設の手伝いをしているのだ。
たまにボランティアで参加するとかではない。長期休暇をとるたびに、必ずアフリカに行って、現地の子どもたちの支援活動をしていた。
その彼がいつも言っていた言葉がある。
「アフリカには、服を寄付しないでくださいね」
自走のために必要なこと
このとき、彼から聞いた話は、僕の書いた小説「きみのお金は誰のため」にも使わせてもらった。銅冶勇人は、物語のキーパーソン、堂本さんとして登場している。
そして、彼は7年間ゴールドマン・サックス証券で働いたのち、2015年アパレルブランドCLOUDYを立ち上げる。主にアフリカのガーナを支援しているが、お金や物資を支援するだけでなく、彼らが「自走」できるように支援しているのだ。自走とは、外部からの支援に頼らずに、現地の人たちが自ら経済を回せる状態になること。
必要なものを自分たちで作れるようになれば、その社会は自走できる。
インフラが整い、彼らの持つ技術が発達すれば、自分たちでいろんな問題を解決できるようになる。
便利な物やサービスも、自分たちが利用するものは、自分たちで作れるようになる。
彼の活動に共感して、一緒に働いている人もいれば、CLOUDY の商品を買って応援している人たちもいる。
通販から始まった彼のチャレンジは応援者の数とともに大きくなり、今では、原宿に旗艦店を構えるまでになった。
東京にとどまらず、大阪、名古屋、京都、福岡など、日本中の百貨店でポップアップを展開している。
ガーナが自走できるように教育にも力を入れていて、最近8校目の学校建設が始まった。もちろん、建てて終わりでは無い。学校が自走して運営できるような取り組みも行なっている。
僕が小説の中で、彼の話を紹介したのは、生きている「本物の経済」について読者に伝えたかったからだけではない。彼の活動を知ってもらいたいと思ったからだ。
しかし、それだけ応援しているのに、「推したい会社」と言われて、すぐに思い付かなかったのはどうしてなのだろうか?
応援とエネルギーの交換
おそらく、僕が「会社」を探そうとしていたからだ。
僕の脳内では、「推したい」という言葉が密接に紐づいているのは、CLOUDYという会社ではなく、CLOUDY代表の「銅冶勇人」という個人に対してなのだと思う。
また、「推したい」と「CLOUDYのアフリカ支援の活動」の紐づき方も強い。実際の様子を写真や動画を見たことがあるので、そこで活動している人々が動いている様子がまざまざと思い浮かぶ。
推したい、応援したい、と思える対象は、会社よりも人々のほうが強い気がする。僕は、銅冶勇人とその仲間たちを応援しているのだ。
社会学者の宮台真司さんから、「昔は祭りでエネルギーをもらっていた」という話を聞いたことがある。閉塞された空間ではエネルギーは徐々に失われるから、外部からのエネルギーが必要になるらしい。
祭りには、普段、農村で暮らしている定住民だけ参加するのではなく、非定住民たちも呼んで一緒に騒ぐ。非定住民からもらったエネルギーを蓄えてまた次の日から頑張れるという話だった。
今になって振り返ると、会社時代に銅冶から聞いた話にも合致する。彼も「アフリカからエネルギーをもらっている」と話していたし、彼自身は僕ら会社の同僚たちに、エネルギーを与えてくれる存在だった。
きっとアフリカのエネルギーを届けてくれていたのだろう。
僕の勝手な解釈だが、応援というのは、一方的に何かを与えることではないと思う。
応援することによって、彼からエネルギーを受け取っている気がするのだ。
僕から彼、彼から僕へと、両方向の流れが存在している。
”推し活”も同じだと思う。ファンが”推し”を応援するとともに、”推し”からエネルギーをもらっているのではないだろうか。
応援したくなる仲間たち
「社会によりよい取り組みをしている」企業として、CLOUDYを紹介したのだが、「社会のため」とは利他的なことでも大きなことでもなく、「社会の中の誰かのため」でいいのかもしれない。
そうなのだとすると、特別な活動をしている必要はなく、多くの企業があてはまる。基本的に、企業というものは顧客の幸せを考えてくれている。
僕が小さいころ、近所の「シマダ商店」で、ビックリマンチョコを買っていた。当時、日本中で大人気だったビックリマンシール。シマダのおばちゃんがビックリマンチョコを仕入れてくれていて、「一人3個まで」と制限をしてくれていたから、僕をふくめて近所の子供たちは、ビックリマンシールを手に入れることができた。
「シマダ商店」もまた、地域社会の子どもたちのことを考えている。そう思うと、「シマダ商店」も今回の企画にあてはまる気がする(40年くらい行っていないが)。
世の中にある多くの企業は、多かれ少なかれ社会のためを考えている(そうじゃないとお客さんは増えない)と思う。
それなのに、僕が推したいと思う会社が少ないのは、人の顔が見えないからではないだろうか。
例えば、ミツカンという会社がある。
「やがて、いのちに変わるもの。」というスローガンをかかげて食卓の幸せを願ってくれている。
そのスローガンは知っていたが、推したい会社だとは思わなかった。
ところが最近になって、推したい会社に変わった。
偶然、中埜裕子社長や社員さんたち、彼らから事業への熱い想いを聞いたのだ。
”「やがて、いのちに変わるもの。」を作っていきたいんです”
彼らの活動内容は、スローガンで掲げている通り。その内容が変わったわけではない。しかし、推したい会社になったのだ。
それは、僕の認識が変わったせいだ。
熱意ある人たちに出会い、「ミツカン」という会社が「中埜裕子と仲間たち」に変わったのだ。
会社というものが、無機質な箱か何かではなく、熱い想いのある人々の集まりだと認識できるようになれば、いろんな会社を推したいと思えるようになるのではないだろうか。
「CLOUDY」を推しているのも、「銅冶勇人と仲間たち」を知っているからだし、「シマダ商店」を推すのも「シマダのおばちゃん」を知っているからだ。
ちなみに、英語のcompanyには、「会社」以外にも「仲間」という意味もある。Tiffany & Co. は、ティファニーさんと仲間たちという意味だ。
会社からではなく、働いている人たちからエネルギーをもらうのだ。
エネルギーの循環
「ここぞという場面で、自分は必ず6を出します」と豪語した銅冶勇人は、アフリカで現地の人々が自走できる仕組みを作り、仲間たちを巻き込み、ついには多くの応援者を得ている。
必ず6を出す――それは、エネルギーの渦に多くの人々を巻き込み、運や確率論を超えた結果を出すことなのかもしれない。
僕にとっての『推したい会社』とは、そこに『応援したい人たち』がいる会社だ。情熱や思いが人から人へと伝われば、自然と応援の気持ちが芽生え、互いにエネルギーを与え合う循環が生まれる。推す側も推される側も、共に元気になり、次の一歩へ踏み出す力を得る。
このエネルギーの循環は、やがて会社自体を変える。多くの人から応援されたいなら、会社は誇れる存在でなければならない。そう思えば、自然と顧客や社会への配慮が深まり、『社会によりよい取り組み』がさらに加速していくだろう。
企業が『社会にとって良いこと』をするのは特別なことではない。顔の見える人々の努力と想いが詰まっていれば、それはもう誰かのためになっている。僕たちは、そうした想いを知り、感じ、そして応援することで社会を少しずつ住みよくしていけるはずだ。
この原稿を書きながら、僕はそんな未来を思い描いている。
毎週noteを更新しています。よかったらフォローお願いします。