ブルーノ・ゼーヴィ『空間としての建築』

最初の訳出は1966年だから、もう半世紀以上前だ。大戦後の建築論を、建築の意匠、様式という美術史的な文脈から、「内部空間の意味」というより根底的な意味論へと定礎しなおした古典的な著作。

1.建築に固有の本質的な価値とは、内部空間の意味である。
2.それ以外のヴォリュームの造形上の装飾的な要素というものは、すべて、空間的ヴァルールを得んがためにーそれらの要素が空間に密着し、あるいは強調し、対立しているとしての話だがーどれほど価値があるかという関係において、はじめて建築の評価に加えられるものである。
3.空間的価値は、高揚の価値に係わる諸要素、すなわち、隙間に結びつけられている。下巻P276

建築は、線と面、直線と曲線、密閉と破れ目、光と闇などの対項を組み合わせつつ、内なる空間をつくりだす。
そして、私たちが建築の外部と内部、内部の仕切り内を運動することによって、生活や儀式において、その建築の生きられた意味がつくりだされる。

著者は、建築が内部空間の生きられた経験を創造する生活ー芸術であることを論じた美術批評家の論考から何カ所か引用している。ここではそのふたつを孫引きしておく。
ひとつめは、フォションによる次の一節ー

建築がまさに建築となるような、深い独自性が存在するのは、恐らく内部のマッスにおいてである。このくぼんだ空間に、明確な形をあたえることによって、建築は、真に固有の世界を作り上げている。たしかに外側のヴォリュームやそのプロフィールが、自然のフォルムに完全に人間的な新しいひとつの要素を参加させているし、自然のフォルムに対しても、建築に精密に計算された一致と適合が、つねに予想もしない何物かを付け加えているのは事実だ。しかし、もう少しよく考えてみると、最も非凡で驚くべきことは、とにかくも、かかる空間の裏返しを思いつき、作り出したということである。人間はつねに、あらゆるものの外側で歩み行動している。人間は永久に外側にいる。そして表面の向こう側に侵入しようとするには、それらの表面を打ち壊さなければならない。あらゆる芸術のうちにあって、建築だけが持つ特有の特権、それは、住宅とか教会、船などで確立されているが、それは適当な空間をおおってみたり、それを外界から保護したりすることではない。必然的に自然的秩序にくみこまれている幾何学や力学や光学の法則にしたがって、ー自然そのものは実のところ、そのままでは何も出来ないのだがー空間や光の量が調整されている内側の世界を作り上げることにある。下巻P218-219

もう一人、ゴッドフリー・スコットの論説からも一部引いておく。

われわれがそれに注意を払わないとしても、空間はわれわれにはたらきかけわれわれの精神を支配する。(…)
ある空間を限定することはあらゆる構造の目的である。われわれが構築するというとき、それは、一定量の空間を選び出し、それを、囲み、それを保護するということにほかならない。すべての建築はこの必要性から生じている。
だが、美学的には、空間は更にいっそう大きな重要性をもっている。すなわち、彫刻が粘土の塊を、絵画がそのタブローを形成するのと同様に、建築は空間を形成する。建築はいわば、全体とそれに入り込むものたちのうちに、一種の精神状態をつくり出すことを追求しているのである。
その方法はどんなものか、それは、運動に訴える。そこにこそ建築がわれわれのうちにもっている価値があり、それによって建築は、われわれの肉体的な意識のうちに侵入する。われわれは本能的にそのうちにいる空間に順応する。そしてその空間に自己を投影し、われわれ自身の運動によって、その空間を理念的に満たすのである。最も単純な例をとってみよう。われわれがある身廊を奥へ入って行く時、そして、列柱の長いパースペクティヴの前に立っている時、われわれは、いわば本能的に前方に進み始める。なぜなら、その空間の性格が、そのことを求めるからである。だからたとえわれわれが動かずにいたとしても、われわれの眼は、そのパースペクティヴの方向にひきつけられ、そして、われわれは、その方向を想像力のうちにたどるのである。空間は、われわれにある運動を暗示した。ひとたび、この暗示が、われわれに感じられるや、その暗示に一致するすべてのものがわれわれを助けるように見えるだろう。そしてその暗示を妨げるものは、われwれには不適当で醜いもののように思えるだろう。さらにわれわれは、その運動をひき止め、完結することができるような何物かを求めるだろう。つまり、例えば、窓とか祭壇である。だが、むき出しの裸の壁は、もし、シンメトリックな空間が問題であるなら、無害な終点であるが、ダイナミックな方向軸を持っている結末にとっては、醜いものとなるであろう。なぜなら最高峰までわれわれをもたらさないような、根拠のない運動は、われわれの肉体的な衝動に対立する。すなわち、それは、人間化されていないからである。下巻P271-272

現在ならば、アフォーダンス的であり且つ美学的な体験価値を、建築の固有の価値、評価基準とみなす観点が提示されている。この観点は、クリストファー・アレグザンダーの『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー』などで論じられている、建築空間によって創出される「空間の質」をめぐる議論にも繋がっていく。


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