いま40代のわたしが20代のときに出会ったもの (2)
台湾に来て3ヶ月がたった。最初の1クール(学期)を終えたところで、初級を終えたぞ、と安堵した私は、次の段階に進もうとしていた。ところが、学校から指定された教科書はまたもや初級レベル。他のクラスメートはすべて次のテキストに進んでいるのに。
原因は発音の悪さだ。練習はしてたが、なぜか口の動きが、どうしても中途半端でもぐもぐとした音を発しているようだ。そもそも中国語の発音というのは、声調と呼ばれるものがあり、音の高低によって言葉の意味に明確な違いがある。息の有無(有氣,無氣)によっても違う単語になる。
音階や息の要素があいまいだと、困ることになる。たとえば、屋台で餃子を10個(shige/第2声) 頼んだら、4個(sige/第4声)しかでてこないのである。
次の段階へ進めないことはくやしい。しかし急がば回れ、と言うではないか。腹を括って、発音練習を工夫してみる。手鏡を見ながら、自分の口の開き具合や唇の形を確認する。何度も何度も繰り返す、地道な作業だ。でもこのトンネルを抜けなければ、言語習得の前段階でつまづいてしまうことは明らかだった。
もうひとつ私が劣等感を抱いたのは、学費に関することだった。周りの留学生のほとんどが、政府や学校、職場からの奨学金を得て来台していた。
他国の学生らが当然のように奨学金をもらいながら、お金の心配をせずに勉強できることがうらやましい。彼らはみな大学や大学院出だ。自分は申請したくとも、奨学金を申請できない。恵まれた彼らとの状況の差を思い知らされた。
それなら彼らに負けじと、カラオケや夜遊びもせず、1日8時間以上を予習復習に費やした。朝8時からレッスンを受け、夜遅くまで視聴室でテープを聴いた。帰りがけに、清掃のおじさんがよく話しかけてくれた。「最用功的學生(一番真面目な子)」と名付けられたくらいに。
◆◆◆
そんな勉強漬けの毎日を送っていたわたしに声をかけてきたのが、アメリカからの留学生Bだった。Bは四つ年下で、めずらしく自費で来ていた学生だった。彼女はアジアの明星(スター歌手)が大好きで、鄭秀文やKelly Chen、張恵妹など、流行りの中国語圏のシンガーを教えてくれた。
ある日、Bがゴールドジムに一緒に入会しないかと誘ってきた。あまりコミュニケーションがとれない私に代わって、Bは入会費の価格交渉をしてくれた。のちにこのジム通いはわたしの留学生活の大きな部分を占めるようになる。
週に2〜3回ジムに通い、エアロビクスやヒップホップの授業に出た。なかでも講師Mのヒップホップのクラスは人気があった。まだ20代そこそこのMのクラスは、ノリのいい台湾ポップスとユーモアに溢れていた。毎週土曜日の午後のクラスが、新たな楽しみになった。
ある雨上がりの土曜日のレッスンの帰り道、Mが私をみかけて、声をかけてきた。毎週熱心に通っている生徒が日本人だったことにMは驚いたようだ。そして乗ってきた大型の2輪のバイクで家まで送ってくれるという。はじめて250cc のバイクの後ろにまたがり、郊外の知らない街へ出た。
当時Mは芸術大学の学生だった。「一年間休学して舞踊団に参加していたんだ」と話していた。行きつけのジューススタンドでタピオカミルクティーを飲み、クラスでの振り付けをどうやって作っているかや、台湾の有名な舞踊団「雲門舞集」について話をしたと思う。
それから3回デートをして 、ある日突然「もう付き合えない」と言われた。「誰かがインストラクターと会員がデートしているのを目撃した」ということで具合が悪くなったらしい。なんてつまらない理由だろうか。
勉強とジム通いに時間を費やしているうちに、初めての夏が来ようとしていた。6月から9月の間は授業には出ず、友人を訪ねて旅行することにした。
◆◆◆
最初に訪れたのは、九州だ。福岡空港から、小倉市内をまわって、小倉城や松本清張記念館などを見学。そして再び福岡市内に戻り、短大時代の友人Yと会う約束をしていた。
Yは私より一つ年上で、高校時代アメリカに留学した経験があったので、同級生のなかでずばぬけて英語ができた。短大卒業後は、「日本語教師になりたい」と東京の有名な4年生大学に編入し、大学卒業後は念願の日本語教師として一年間オーストラリアに赴任した。
誰よりも熱心に「日本語教育にかかわりたい」と言っていた彼女だったが、帰国後は、地元の福岡に戻った。Yの近況が気になっていた。
黒川温泉に浸かりながら「何年も夢見ていた日本語教師の仕事は、実際にやってみて違うと思った」と清清とした表情で話してくれた。
Yのアパートに泊まった翌日の帰りがけに、Yの働く木工工房へ立ち寄った。帰り際に自分用に手作りのパン皿を購入すると、もう一枚に土産にくれた。伐採の杉で作った皿で、いまではもう、20年以上使っている。この数年後、Yは木工工場で出会った先輩職人と結婚し、素敵な作品を作り続けている。
彼女が日本語教師を夢見ていた年月は決して短いものではなかったはずだ。夢を追いかけて追いかけて、こんな風にたどり着く。
◆◆◆
福岡から帰ってきて数週間後、8月の終わりに、今度はアメリカのペンシルバニアにあるBの家に行く約束をしていた。一度アメリカに行ってみたいと思っていたのが、思いがけない形で叶ったのだ。ペンシルバニアの彼女の家に一週間滞在し、その後バスでニューヨークへ旅行する計画だった。ニューヨークに到着した当日、ホットドッグを食べ、フェリーに乗って彼女の友人の家に向かった。夕陽のなか、船からはワールドトレードセンターが見えた。
その日はミュージカルを見に行く予定だった。Bと友人は前の晩遅くまで、お酒を飲んで話し込んでいたらしく、起きてこない。その朝、ワールドトレードセンターの一階にあるチケット売り場で、当日販売のディスカウントチケットを買う予定だった。眠い目を擦りながら、リビングでテレビをつける。寝ぼけていたせいか、中国語から英語の環境になったせいか、何のニュースか聞き取れない。
何度もくり返される映像を見ているうちに、次第に理解した。ワールドトレードセンターで何かが起こったのだ。そう、ちょうど予定では今ごろそこにチケットを買いに行ってるはずだったーーー
三日目、地下鉄メトロは一部動きだしていた。わたしたちは友人の家族とともに、チャイナタウンで食事をとった。何が起こったのか理解していた人はまだいなかったと思う。とにかく集い、食卓を囲むということで、冷静に過ごそう、という試みのようだった。
やっとのことで、ペンシルベニアに戻った。正味たった一日のニューヨーク旅行。9月10日、最初に立ち寄った土産物屋で買った、小さなリンゴ型の写真立てには、水彩絵の具で’BIG APPLE’の文字とツインタワーが描かれている。
台湾に戻ったあとも、ニューヨークで遭遇したことは、誰にもなんとなく話せなかった。こうして、ひさしぶりの長い長い夏休みは終わった。
台北に来て一年がたとうとしていた。この留学をどう終えるか、考えなければいけない時期にきていた。
ーーつづく
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