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いろんなことへの文句 なぜ真面目で優しい人が生きづらい世の中なんですか?

始めに言っておくと、私は今至って穏やかである。
母の作った美味しいカレーとポテトサラダを食べた後、リビングの座椅子に座ってipadで好きな俳優の出演作を観ていた。職探しは続いているし心配事は色々あるけれど、たった今現在の自分は別に怒っていない。
でも、これまで生きていて「ん?」と思ってきたことを急に書き留めたくなった。
感情に任せて書くと自分にしか分からない文章になってしまうので、あえてこの穏やかな気持ちのままに。

どこもかしこも明るく元気な人を募集するけど、それってどんな人ですか?

街中のお店に貼ってあるアルバイト募集の紙に、「明るく元気な人募集」と書いてあるのを何度か見たことがある。転職の求人の、求める人物像の中に「明るく元気な人」があるのも見たことがある。なんなら面接中に「御社の社員はどんな方がいますか?」と聞くと「明るく元気な人が多いです」と返ってきたこともある。
どこでも求められているこの人物像。まずかなり曖昧じゃないだろうか。
明るい人ってどういう人?舞台稽古中の俳優くらい声を出してハキハキ喋る人?目が合った瞬間ニカーっと笑って「おはようございます!!」と挨拶する人?

世の中には色んな人がいると思う。

だから、「元々明るくて元気です」という少数の人を除いて、ほとんどの人が仕事の上では本来の自分を抑え、社会の求めるその人物像に近づけた行動を取ることを求められる。それはそれで別にいいという考え方もある。確かにあまりにも毎日暗かったり気分屋すぎたりする人には仕事の話も雑談も気軽にはできないし、意思疎通を図る上で所謂その「明るくて元気」な姿勢はどんな仕事でも重宝される、と、思う。
でも、「業務遂行のために日頃のコミュニケーションをこまめに取れる人」とか「業務に支障が出るような怠惰な態度を取らず、業務上の人間関係を築く意思を持てる人」とかではなく、ただ単に「明るく元気な人」とまとめてしまうのが、なんかムカつく。
だってその表現をぱっと見たときに「え、私明るく元気なパーソナリティじゃないけど、私って仕事上は使えない性格の人間ってこと?」と感じる人がいるかもしれない。そもそもそんな短くて曖昧な表現じゃ解釈に個人差が出る。小説なら様々な解釈が生まれればすごく面白いなと感じるけど、仕事をする人を募集するなら募集する人物像をもっと明確に示した方が合う•合わないがお互い明確に分かってありがたいのではないか。と、考える。

そこまで考える必要ないよ。求人なんて書く側も適当に書いてるだけだし、見る側もそんな細かく見てないって。
という人。普段から考え事が多くて、そのこだわっていない部分からも哲学的な思考に結びつけようとする私みたいな人間も一定数いると思うので、よろしくお願いいたします。

「いつも頑張っている人」より、「たまにいいことやった人」の方が褒められるのはなぜですか?

毎回コンスタントに80〜100点を取るより、いつもは20点だけどたまに70点取る人の方が褒められる。
中学生の頃、特にそう思っていた。
私自身は、宿題を忘れることはほとんどなく、例え苦手な教科でも平均点以上に取れるようにテスト数週間前から勉強計画を立てて、日々計画とにらめっこしながら学習を進めていた。素行も悪くはなく、むしろ優等生タイプだった。
そんな自分から見て、反対のタイプの同級生がたまに羨ましかった。
私より良い意味で気楽に過ごしていて、テストの結果は天気予報のような軽さで受け止めて、毎日先生に注意されてはいても本当はむしろ人一倍可愛がられているような人。
特に普段から先生を困らせてばかりの人は、反対に少しでも良いことをするとめちゃくちゃ褒められている印象を受けた。

私が僻んでるのかな?と思ってあまり人に言えなかったけれど、大学生になってから友達にこのことを話すと、その子も所謂優等生タイプ側の人間で、私の気持ちがとても分かると言った。

いつも頑張っている人もすごくない?

その「たまにやったいいこと」が目立つのは事実だし、本人が継続していいことを続けられるようにするために最初は殊更に褒める、という手法を取っているのかもしれない。
でも、それをやるなら、じゃあいつも頑張っている人のことは日頃からそれ以上に褒めてよ。と思う。
「できる」って、当たり前じゃない。どんな人にとっても。
KPOPアイドルが表ではニコニコしていても舞台裏では練習や食事制限や今後の不安などと必死に闘っているのと同じようなもので。自分が「すごいな」と思うことをできる人って、難なくやっているように見せてるだけなんだよ。と、思う。
あんたが好きで頑張ってるだけでしょ?嫌なら頑張らなければいいじゃん。褒めることを強要しないでよ。と言うなら、じゃあせめて出る杭を打たない社会にしようね。頑張っている人や成功の過程の失敗をしている人の気持ちが分からないなら、何も口出しせず引っ込んでろ。と思う。

なぜ真面目で優しい人が生きづらい世の中なんですか?

近年めちゃくちゃこれを感じている。怒りすら抱きながら。
多方面に細かな配慮をするよう心がけて、人を不快にさせないよう気をつけて、人を元気にさせる言葉をかけることができる人。他人の傷を自分のもののように感じて心を痛めることができる人。
そんな人達に限って、この世からいなくなってしまう。自分とそんなに変わらない年齢で。

もしそんな友達がいたら、今すぐSNSを見るのをやめて、自分の味方をしてくれる人だけをそばに置いて、もし批判されたら「知らねーーよバァァァーーカ」と言いながら鼻でもほじくって、他人の声をフル無視して、好きな人生を生きてほしい。
きっと一生分、他人を気遣い、優しさをあげた人だと思うから、もうずっと自分のために生きていいんだと、分かるまで言ってあげたい。

考えすぎるという言葉で片付けないでほしい。確かに、注目を浴びたくて、他人にかまって欲しくて、自分を特別な存在だと思いたくて、不幸を背負いたがる人もいる。でも、生まれながらにして物事に敏感で、考えたくないにも関わらず病んでしまうほどに物事を考え込んでしまう人もいる。些細な矛盾や他人の負の感情に対し、自分の心に生じた僅かな違和感を放っておけない人もいる。適当に生きるなんてできないのだ。たまたま上手くいったからいいや、自分は傷ついてないしいいや、そんなふうにやり過ごして生きられない。

優しい言葉を浴びせるなら、その人が生きている内にしたい。
自分の鬱憤を他人に向ける人にはなりたくない。
綺麗事に聞こえるかもしれないが、私は言葉はギフトだと思っている。
その人にあげられる贈り物。
どうせあげるなら、その人が喜び、何度も見返したくなるような贈り物をあげたい。たとえ一期一会の人でも。でも仏ではないので、倫理観のない人とかには私は贈り物はあげない。

社会のレールって、結局あるんですか?

多くの人が「決まったレール」を歩くように気をつけているが、その人たちのほとんどは「世間体が」と言う。つまり、レールを歩くようにしている人のほとんどは、例えば「大学に行って新卒で就職して20代のうちに結婚してその後子育てをするのが、決まったレールです」と宣言している人を実際にその目で見たという経験を多くしてきている、というわけではない。生きている過程で、何となく上の世代の人たちの日本人の人生は大体がそういう感じなんだろうな、と感じてきて、だから自分も同様の人生を歩むのが本来正しい道なのである、と思うようになった、というだけ。

SNSでも、自由な自己表現がなされているのかと思いきや、他人の特徴を断言するような情報や「〇〇な人は〇〇」というかたちで不安をあおる情報も多いと感じる。

でも、それらって元々誰が言い始めた「常識」なんだ?誰が言い始めた「基準」なんだ?
もし言い始めた誰か(今常識とされている価値観を元々言い始めた人。家族や友達ではなく。時代を遡って、元々、この日本にある常識を作った人)が特定できるとして、自分はなぜ見ず知らずのその人の言うことを聞かなくてはならないのか?その人は私の人生を何も知らないのに。じゃあ今、通りすがった誰かに「髪切ったほうがいいですよ!」とか「その仕事役に立たないと思うので辞めましょう!」と言われたら二つ返事で従うのか?従わないだろう。なのになぜ誰が言い始めたのかも分からないふわっとした世間体というものを何の疑いもなく信じるのか?

屁理屈じゃね?と思う人もいるかもしれないが、何が言いたいのかというと、「辛い」と感じる時、それは知りもしない「誰か」の基準を重視してしまっているせいではないだろうか?と振り返ることができれば、余計なものを背負っていたことに気づき、もっと身軽に生きられるようになるのではないか。充実感を感じる方向へと舵を切ることができるのではないか。と思ったということ。


疑問ばかりですみません。

これらの疑問への答えは、誰かに教えてもらうのではなく、自分で時間をかけて探していきたいと思っている。

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