通学や通勤の時間が長くても、損はしていない、気がする
私は高校生の頃から、通学時間が比較的長かった。埼玉から他県の高校に通っていて、地元のローカル線から高校着のバスに乗っていた。片道は1時間半ほどだ。
まあ、ローカル線の本数が1時間に2、3本と結構少ないので、電車を一本逃せば20分ほどホームで待つのが当たり前だった。その待ち時間も片道時間が長い原因の一つだったと思う。
高校時代は3年間勉強漬けの生活をしていた(ちょっと珍しいかもしれないけど)。電車やバスの中では単語帳や歴史の教科書を読んで過ごしていたので、通学時間を無駄にしているという意識はなかった。
大学生の頃も、片道1時間半だった。今度は埼玉から電車で都内の大学に通っていた。高校とまるっきり方向が違い、大学が近づくにつれて都会になっていく様子を最初は不思議に見つめていた。迷宮のような駅、首がもげそうなほど高いビル、せかせかと歩く人たち。そういえば高校の頃は通学定期が紙だったのに、大学からはSuicaになった。大学の友達には「今、紙の定期なんてあるの?」と驚かれた。
大学の頃は映画を観たり、本を読んだりと、自分の時間に充てていた気がする。たまには電車に乗った瞬間から友達とLINEし続けて気づけば最寄り駅、なんてこともあったかもしれない。
現在、私の通勤時間はなんと片道2時間半である。
上記の経験から片道1時間半くらいは屁でもないと感じられるようになっている私だが、2時間半は流石に旅である。群馬あたりの山が見える埼玉の自宅と、窓からオーシャンビューを堪能できる千葉のビルを行き来している。地元と千葉では風の感じが違う。海が近いと、なんとなく風が潮を含んでいる感じがして開放的な気分になる。海無し県民の錯覚かもしれないが。
とはいえ、この片道2時間半生活は期限付きのものだ。最初の業務引き継ぎ期間が終われば、東京のオフィスに移動できるのだという。だからあと1ヶ月くらいで終わる。(終わった後は片道1時間半になる)
電車の中では寝たり、海外ドキュメンタリーを観たり、英語の勉強をしたり、映画を観たり、ラジオを聴いたりして過ごすことにしている。家での自由時間の過ごし方と全く同じだ。ちなみに寝る時は上を向いてうっすら口を開け、いびきをかきかけて起きるなど、わりと全力で寝ている。良い子は真似しないでね。
朝型の私でも体力が持たず、金曜日はほぼ気力で通っている。悔しいので今後は週一で近所を走ろうと思っている。暑さでぶっ倒れないよう、夕方に。
話がまとまらなくなってきたが、移動時間が長いことの利点を一つ挙げるとしたら、「(学校や)職場と自宅とのスイッチを完全に切り替えられる」ことだ。
例えば大学でむしゃくしゃして帰ってきても、自宅で窓の外を見ながら「ここにいる人たちは大学での私を知らないんだ」と思うと少し気が楽になった。地元のスーパーに行っても、大学の知り合いと会う確率はゼロに近い。地元の私と、大学の私。二つの顔を堂々と使い分けられるのは快適だった。
仕事も同じ。離れれば離れるほど、「別の自分になる」という意識が濃くなっていく。例えば仕事で心配事があっても、電車で家に近づくにつれて気持ちをリセットでき、家に着く頃には仕事のあれこれを忘れている。もし家から職場まで10分で行けるとしたら、私はこんなに器用に気持ちを切り替えられなかったと思う。
「通勤時間長いなんて無駄だよ。だってその時間、給料発生してないじゃん」
という意見をもらったことがあり、その時は確かにと思った。
でも、私の場合、たとえ通勤のための移動であってもその時間は「ただの移動時間」である。通勤時間に対して「通勤のための移動」という意識が薄い。というか、「あらゆる移動時間=自分の時間」と捉えている。通勤時間が10分の人と2時間の人がいたとして、2人の実働時間が同じであれば、1日の自由時間は2人とも同じだけあるということである。
まあ、電車に乗っているだけで人間は疲れるものだ。感染症にかかり1週間ほど自宅にこもった後で久々に電車へ乗った時、「座って寝ているだけで何でこんなに疲れるんだ?」と感じた。利便性を考えるなら、短ければ短いほど良いんだろう。
一人暮らしするする詐欺をしつつも日々自宅に戻り続け、もうすぐ近所でとあるバイトを始めようとも思っている。
私の場合、気持ちの切り替えができるという利点が好きなのと、家族が楽しいのと、あと単純に地元が好きなのだと思う。ビルも何もない、田んぼが広がっていて時間の流れも人の動きもゆっくりな、あの地元が。