
262:それはすごいことだと思う
自分が書いたテキストを読んで,いいなと思うことは何度もあったけど,児嶋さんの作品集『ネオ東京──徘徊と書』について書いた「「ニュートラルな空間」で拮抗するぐにゃぐにゃの情報体と四角四面な視界」を久しぶりに読んだけど,これはいいなと思った.主観的な〈視界〉と客観的視界との関係が書かれているのがよかった.その流れで,児嶋さんの作品を眺めると,こちらもまたいいな.情報体と四角四面の視界との関係が仮想空間上で逆にされた作品があって,これは私のテキストを読んで作ってくれたのかなとか思ってしまった.思い上がりかもだけれど,彼とは一緒に作品を作っているような感じがある.
児嶋さんの作品について,勝手にまた書きたいなと思った.『Writign in the Air』のヴァーチャルギャラリーに展示された作品について考えたい.情報体がグニャグニャだけでなくて,フレームにへなっとした感じでかかっているものがあって,内側からの張りがなくなっている感じがとても新鮮だった.質感の違いも気になるのだけれど,私が情報体と呼ぶ書のオブジェクトが奥にあって,その手前に四角四面の視界が置かれているのが気になって仕方がない.そして,それらがフレームに収まっている.情報という全体から採取したサンプルとしての情報体がそこにあって,情報体から〈視界〉が生じて,それが四角四面な視界である画像になるまでのプロセスがぎゅっと詰まっている感じがある.この詰まっている感じを言葉で解凍していきたい.
「ニュートラルな空間」としてのフレーム内空間なのかもしれない.でも,そのフレーム内空間も仮想空間であって,児嶋さんのディスプレイと作品集として印刷されたページという平面にしか,そのような感じでは存在していない.データとしては立体でも平面でもないのだが,私たちに現れるとき,データは平面にならないといけない.データとしては立体の情報が与えられているけれど,情報体としての現れは平面になっているのはなぜなのか.「なぜ」と問いを発するところではないのかもしれない.私たちはデータをデータのまま,情報を情報のまま体験できなくて,立体や平面にしないといけない.そして,立体であろうと網膜に入力されるときに,強制的に平面にされる.「平面される」と思い込んでいるだけで,網膜という平面に入力されたデータがそのまま平面で出力されるとは限らない.そもそも網膜は平面ではないかもしれない.平面であり立体であり,それ以外でもある状態が〈視界〉の手前にはあるけれど,それを私はどうしても体験できない.〈視界〉の手前にある情報体を体験したいという私の欲求を,児嶋さんの作品は満たせしてくれそうと期待している.
〈視界〉の手前を体験するには,児嶋さんの作品しかり,宇佐美さんの作品しかりで入れ子,再帰的な状態が求められるのかもしれない.どうしてかはわからないが,再帰的な状況をつくっておくと,私が肉体と精神という状態から,情報体に近い状態,肉体と精神という二つの様相で現れる前の何かとして,その再帰的状況に入り込んでしまうということが起こるのではないだろうか.宇佐美さんの作品を考えるときに考えてみよう.
情報に2つの様相,物質と現象があった.そこに,もう1つ,デジタルオブジェクトという様相が追加された.ヒト単体ではその様相は認識できないものだが,コンピュータとセットになれば,認知もでき,しかも,行為もできる様相として,私たちの前に現れる.デジタルオブジェクトがもう1つの様相として現れたときに,情報は認知だけできる意味的な何か,認知をして行為もできる何かに変わって,それが情報体となる.情報体は情報空間という意味的な何かであって,私たちの認識とは隔たりはあるという点では情報と変わりないが,体感できたり,行為の対象として改変可能性を持つ点が情報とは異なる.デジタルオブジェクトが情報の第3の様相として現れたときに,情報空間は情報体の集合に変わったのではないだろうか.
デジタルオブジェクトを情報体の様相として,第3の様相としてしまうというのは,これまで思いつかなかった.ヒトが認知できないだけで,他の存在は情報を物質や現象とは異なる様相で認知し行為できるかもしれないと考えると,コンピュータとセットになったヒトであれば,認知・行為が可能な様相として,デジタルオブジェクトがあり得るのではないか.情報は物質的様相で現れることもあれば,現象的というか,心的な様相として現れることもあれば,デジタルオブジェクト的様相で現れることもあるとしてしまう.ヒトとコンピュータが情報に関して,これまでとは異なる様相を認知・行為できるようになってきていると考えてしまう.ヒトに限定されない情報の現れとして,コンピュータの進化を待って,はじめて現れた情報の様相としてのデジタルオブジェクトは,コンピュータの進化に伴って,どんどん姿を変えていく様相として,私の前に現れている.
このように考えるきっかけは,入不二さんの下の文章を読んだから.情報が非人間的な認識の仕方で別ように捉えることもあり得るとしたら,それは非人間的とまでいかなくても,ヒト単体では認識できないけど,コンピュータとなら認知もできて,行為もできる「デジタルオブジェクト」という様相で,情報が現れても,不思議でもないと考えたからであった.
だからこそ,二重様相説あるいは中立一元論は,認識の水準と存在の水準のあいだに,大きな楔を打ち込む.一人称的な認識であれ,三人称的な認識であれ,認識によって捉えられるのは「様相」「現れ」「属性」の水準であって,それがそのまま「実在」「究極の存在領域」なのではない.実在の水準は,一人称的にも三人称的にも現れるけれども,どちらの現れ方も超えた存在領域である.しかも,一人称的な認識(主観的な認識)も三人称的な認識(客観的な認識)も,どちらも人間に限定された認識の仕方にすぎない.それ以外の認識方法は「ありえない」とまでは言えない.だとすれば,実在の水準を,第三の・第四の……非人間的な認識の仕方によって別様に捉えること(三重様相・四重様相……)も,ありうることになる.p. 211
そして,ヒトとコンピュータとの組み合わせによって,情報が三重様相になったときに,情報もまたその存在の仕方を微妙に変えて,情報空間のような認知の枠組みのような抽象的なものから,認知だけでなく,行為も可能となる実体の集合となるのではないかと考えたのであった.認知的,意味的な「何か」を「情報」としていたが,物質,現象,デジタルオブジェクトという三重様相で私とコンピュータの前に現れる「何か」は「情報体」という,どこかしらで行為の対象となるようなものに変化している.情報体は情報であることには変わりがないが,それが行為の対象になるということが大きな変化で,その変化とともに,私とコンピュータはデジタルオブジェクトを操作しつつ,情報体を感じるようになる.物質を操作していても,現象を感じていても,そこには意味としての抽象的な情報しか感じられていなかったが,今は,デジタルオブジェクトを扱っていると,そこに行為対象としてのまとまりをもつ情報体を感じられるようになっている.明確な認識はまだできないが,これまでとは異なる別の様相であるデジタルオブジェクトを認知,行為し続けていると,どこかで情報体への道が開かれるような感じがあるのだ.
山本浩貴の『Puffer Train』を,自分の興味に惹きつけて「情報体」を描いた小説として,私は読んでしまった.情報と肉体との重なり合い.生と死は情報との重なり合いの仕方で決まっていくというか,死は基本的にない.肉体が情報とのバランスが取れなくなって,壊死していく.最後の方の雪のシーンはとても良かった.雪が降ってきて,カズナとシャライの会話があって,赤いランドセルを引きずるカズナが出てきて,雪が降っていて,生物が出てくる前に,一瞬,私の〈視界〉が真っ白になった.雪で覆われるように真っ白になって,情報が溢れ出して,情報体として何かにならずに,情報が私を覆った.それは宇宙の始まりであり終わりでもあり,でも,始まりというか,何にでもなれるしないれないし,ただそこに情報が溢れているという感じがとても良かった.情報体ではなくて,情報を感じた小説だった.それはすごいことだと思う.
情報体は私の肉体が示す座標と重なり合っている.情報体があるから,肉体にはじめて,精神的な存在を認知できるようになる.情報体と肉体とが重なり合っていないと,精神的な存在,つまり,意識を認知できないと思う.この感じをどう書くか.肉体があって,精神があるのではなくて,肉体があって,そこに情報体が重なって,この重なりが,意識をつくる.
左手にiPhoneがあって,親指でTwitterをスクロールしている.親指の動きに追随して画面がヌルヌルと動いているのを見ていると,画面がヌルヌルと動くのに従って,自分の左手の親指が動いているようにも感じる.画面と左手とはもう離れられないで,これからずっと,ヌルヌルとスクロールを続けていくのだろうと思ったいたところで,iPhoneの充電が切れるという都合のいいことは起こりはしない.
〈視界〉とともにある私は常に世界を認知する存在であるが,それ以上に世界を改変していく行為する存在である.私たちはまだ〈マップ〉では現実空間のように十全に行為することができないでいる.現実空間で「地図」を手に持ち,地図を回しながら,目的地を指差すくらいの行為しかできていない.
『Puffer Train』が邪魔している.読んでいるときのあの感じが邪魔をしている.侵食される.研究と,小説と,何んでもいい,世界に近づくためならなんでもいい.肉薄する.そこにいく.何かが起こっている.起こっている.反転する.左右反転.主観と客観.ロールシャッハ.ロールシャッハとは異なるような感じ.主観のための客観.ロールシャッハのような作品.客観から主観,ロールシャッハへと移行しては,また海岸に戻っていく.この繰り返しにおいて,私の〈視界〉は徐々にロールシャッハを受け入れていく.〈視界〉の主導権が私から作品に移る.私の肉体もまた作品に預けられる.
客観でもなく,主観でもなく,その双方からつくられる〈モデル〉が歪んでいるのだろう.〈モデル〉は客観的な情報を処理してのちに生まれて,主観に上がる情報にある程度のパターンを付与するもので,でも,主観そのものではなく,あくまでも主観のかたちを決めるものだとすると,主観そのものは「認知の歪み」を感じることはない.歪んだ認知そのものが主観の枠組みになっているのだから,その枠組みに主観は気づかない.〈モデル〉は客観と言えるかというと,それも難しい.それは何かしらの方向性に沿ったパターンをつくるものであって,そこには私という肉体が関係している.
物質的プロセスと言えば,そうかもしれないが,この物質的プロセスは世界だけでなく,世界と長い年月かけて関わってきた私の肉体も関わっている.私の肉体は他の誰の肉体ともも異なる仕方で世界と関わってきたデータの集合体でもあるから,主観的要素を帯びている.客観と主観との間に〈モデル〉が形成されて,それが私の〈視界〉形成に大きく作用している.
自分の身体を残してしまうような体験を,私はしたことがない.身体,いや,肉体が意識をハックしてしまうような状況を私は楽しみたいと思っている.意識ではどうしようもできない状況を,私の肉体はそっくりそのまま体験しているのに,私はそれがどうなっているのかを全く理解できない状況にあるのが,楽しくもあるし,苦々しくもあるので,どうにかそれがどのように起こっているのかを,自分の肉体を探りながら,そこで起きていることを感じつつ,記述していきたいと思っている.そのためになんであれ毎日書いて,感じ方を言語にして,意識にフィードバックしている.こうして書くことで,書くことの,言語システムを私の意識を経由して,肉体に,言語システムで関しているぞということを知らしめていると言えるのかもしれない.
寝て起きて,本の抜書きをした.そこにタイトルに書いた「モヤモヤとした干渉」という言葉があった.この言葉がいいなと思ったし,今も思っている.「モヤモヤとした干渉」だけだとなにがいいのかわからない.「私はモヤモヤとした干渉である」ということが書かれていて,それがいいなと思ったのであった.私は確固とした身体ではなく,「モヤモヤとした干渉」である.この実体のないような感じが,私であり,実体がないモヤモヤとした感じが,情報体でもあるとする.今まで考えてきた情報体は「モヤモヤとした干渉」という感じで,現れるというか,それ自体は認知できないけれど,そのようなものとして存在していると想定されるという感じを言葉にできるという点で,「モヤモヤとした干渉」というのはいい感じな言葉だと思っている.
この状態はなにも磁器のカップに限ったことではない.私たち自身の現実も,非常に異なるふたつの側面を持っている.自分のことを移動する肉体と考えることもできるし,宇宙ホログラムの全体に包み込まれた干渉パターンのモヤモヤとして見ることもできるのである.ボームは後者の見方のほうが正しいと考えている.なぜなら,自分がホログラフィックな心/脳であり,それがホログラフィックな宇宙を見ていると考えるのは,これもまた抽象概念であり,究極的には分けることができないはずのものを分けようとする試みだからである.p. 60
「モヤモヤとした干渉」ではなくて「干渉パターンのモヤモヤ」であった.「干渉パターンのモヤモヤ」の方が,私が思っている情報体を「モヤモヤとした干渉」よりも7倍くらいいい感じで言い表している.けれど,私は「干渉パターンのモヤモヤ」を間違えて「モヤモヤとした干渉」と書いていた.ここに意味を見出そうとしてはいけない.単なる間違いであり,記憶できていなかったということでしかない.