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贖罪/呉れてやらぬ/暮れてやらぬ


贖罪

 昨日もまた失敗したらしかった。
 目下には、ひと一人埋まるほどの穴がある。
 水銀のような憂鬱がだらだらと胸に降りて、溜まってゆくのを感じる。
 恐々と空を仰げば責め立てるように赤く、陽は暮れてなどやらぬと睨みをきかせていた。
 足下に転がるシャベルに目を遣ると説明のつかない焦燥が走り、おれにシャベルを握らせた。
 振りかぶった勢いのままに深く突き刺し、穴の縁を崩していく。
 明日こそは月を拝めるだろうか。
 しかし太陽がおれを赦す日は来ないだろう。
 それでも、おれには、シャベルを手に取らない権利も地面を穿たない自由もなかった。
 音のない世界で、シャベルの錆と砂利が啀み合い、彼らの声は不規則な軌道で地平に散ってゆく。
 思考する間も与えられぬ、贖罪の今日が始まった。

呉れてやらぬ

 庭師の女はうっとりとして笑いかけた。
「暮れる前の夕陽っていいよね」
 反して、家主たる青年はうんざりと背を向けた。
「俺は大嫌いだよ」
「び、びっくりしたぁ」
「気分が悪い。雨戸を閉めてくれ」
 そう吐き捨てると青年は後ろ手に障子をあけ、居間へと歩いていった。
 目を白黒させていた女だったが、手早く地下足袋を脱ぎ、律儀に雨戸を全て閉め終えると、青年のあとを追った。
 青年は胡座を組んで座りながら、座卓の上の個包装の飴玉を、黙って指先で転がしていた。
 女がどうしたのか、と訊ねるより先に、青年は気配で察したようにのっそり顔をあげ、鬱屈と話し始めた。
「何度も同じ夢を見るんだよ。今日みたいな色の空で、気分が悪くなる」
「夢、ですか」
 女は、日頃寡黙な青年がこれほど流暢に話せることを知らなかった。困惑を覚えつつも頷くと、青年は続ける。
「空が燃えるように赤くて、目が潰れるんじゃないかってくらい眩しい夕陽、白い太陽がずっと居る」
「在るんじゃなくて、居るの?」
「そう、居る。日が暮れない。時が止まったみたいにな。そんで俺はどうしてだか裸足で土の上に立っていて、さっき掘ったばっかみたいな穴がいつも足下にぽっかりとある」
「なあに、ただの夢じゃない」
 女はいつもの癖で軽口を叩こうとした。しかし、青年の表情は深刻そのものであり、どうしてだか頭まで抱え始めた。狼狽える女をよそに堰を切ったように捲し立て続ける。
「そう、夢だ。だけど俺はその穴を埋めなきゃ、何か恐ろしい事が起こるような確信さえあるんだ。その、だれが掘ったかわからない穴を、近くに転がされてるシャベルを使って、汗だくになって埋める。完璧に埋め終わって空 を仰ぐと、一段と、深く濃い赤が広がっていて……」
 加速していく焦燥を見ていられず、女は取り乱す青年を制するように口を挟んだ。
「ま、待ちたまえ。なんか変よ」
「そうだ、変なんだ! 陽が昇って次は東に傾いて、あの白い太陽がずっと俺を見てる。埋め終われば西に傾く。終われば東に。それが、際限なく繰り返される」
「変なのは夢ではなくて誠嗣くんよ。それは現実で起きているわけじゃあるまいし、仮にそうじゃなくたって、誰かが掘った穴なんだったら放っておくことはできないの? それはあなたの仕事じゃないでしょう」
 女は諭したつもりだったが、俯いていた青年はその言葉を聞くと即座に顔を上げ反駁した。
「俺の仕事かどうかなんて関係ない! 俺が埋めなきゃいけない、それはわかってるんだ。何度も見るうちにわかってきた。空がいつまでも赤いのは俺を責めているからで、陽が落ちないのは、俺が逃げないかどうか見張っているからで……」
 寡黙で憮然としているはずの青年の瞳から涙がこぼれおちるのを、女は呆然とみていた。夢の話ならばと軽く聞いたつもりが、一体全体なんの類の話なのか。困惑しきり、女は腕組みをして黙り込むほかなくなった。
 青年は涙は拭わずにただ洟をすすりながら、ぼそりとつぶやく。
「最近は声がするんだ」
「声? それは人の声?」
「わからない。女だったり男だったり年老いていたり若かったり。でもとにかく、似たようなことを言う」
 取り乱している青年を刺激しないよう、女は慎重に問うた。
「なんと言うんですか」
「埋めるものが違う、そんなことしてちゃ永遠に夜も朝も来ない、我々は青い空が見たい、だから早く埋まっておくれ……と」
 女さえ、頭を抱え始めた。
「それは本当にただの夢なの?」
「夢だよ! 寝てる間に見る、夢だよ」
「……夢だよね?」
「先に『ただの夢』扱いしたのはあんただろう。そう、ただの夢だ。で? 次の剪定はいつになるんだ」
 家主たる青年は我に帰ったのか、雑に目を擦ると卓上のティッシュを数枚引いて立ち上がった。
「えっと、いまはスケジュールを確認できるものが手元にないので帰宅次第、日程合わせのお電話を入れますね」
「承知。ご苦労さん」
 洟をかみながら返事をしたが、女の方を見なかった。
「ちゃんと起きててね」
「なんだ?」
「出なかったら鬼電しますからね」
「はいはい。おつかれさん。よろしくな」
 青年はひらひらと手を振ると、寒々しい廊下に消えた。

 帰宅後、女は定期剪定の日程を調べ、青年に電話した。
 青年は電話に出なかった。

暮れてやらぬ

 その日、私は夢を見た。
 見上げると海を塗ったように青い空が、重力を無視して豊かな水を湛えている。足下は一面苔生していて、愛らしく芽を出した土筆や蒲公英、オオイヌノフグリといった野草や野花がそこかしこにあった。
 上を歩くのが躊躇われるほどだ。
 と、ふいに視線をあげて私は驚いた。
「冬蔦の誠嗣くん!」
 立ち尽くしている誠嗣を見つけたのだ。私は爪先立ちの大股で、彼のもとへ、ひょいひょいと駆け寄った。
「誠嗣くん、冬蔦誠嗣くん!」
 何度も呼びかけるが返事がなく、そろりと覗き込む。
 彼は泣いていた。
 表情こそ乏しいが、先日の涙よりも激しいような気がした。ぽたぽたと涙を落とす彼は青年というよりもどこか、少年のような幼さを感じさせる。
「ごめんなさい……」
 誠嗣くんがつぶやく。彼はまだ私の存在に気付いていないようだった。結構、距離を詰めているのだけど(私ってば忍者の素質があるかもしれないね)。
 「早く穴を埋めないと」
 けれども不可解なことに、聞いた話との不一致が三点あった。
 夢だからだろうか?
 明晰夢にしては自由に動けるし、このまま、夢の中の誠嗣くんとも話せるかもしれない。そう思い、話しかける。
「あのう誠嗣くん。泣いているところ、失礼しますね」
 彼は意外にもあっさりと振り向いた。
「徳永の庭師か? どうしてここに」
「わかりません。寝る前にあなたの事を考えていたからかしら」
「縁側だけに留まらず夢にまで上がり込むときたか。距離感がおかしい、って人に言われないか?」
「……シニカルな弁舌はこちらでも健在か。あのね、その、あなたが仰っていた穴ですけど。どこにあるんですか? 見当たらなくて」
 まず、一つ目の不一致。
「ここにあるだろう。それ以上進むと危ないぞ」
 彼は前進しようとする私を制止するように目下を指し示してみせたが、私の目には、ただ瑞々しい苔の緑が美しいグラデーションをつくっているように映っている。
「なぜ……」
「知らん。あんたの目が穴だったりしてな。これは俺がすべきことであんたには関係ない。いつもより空が赤い気がするし、あんたはもう帰れ」
 そして二つ目の不一致。
「そう、それも! 誠嗣くんは赤いと仰るけれど、私には青く見える」 「は……?」
「それから。ここに来た時からずうっと不思議だったのですけど」
 夢にしては、いやにはっきりと怪訝な表情をする彼の左肩、そのやや後方を私は指した。
「そちらのお方はどなたですか」
「は?」
 彼は、気付いていなかったらしかった。ひどく怯えたようすで背後を振り返り、しばらく周囲を見渡す素振りをしたのちに、憮然と向き直った。
「なにもいないだろうが」
 これが、三つ目の不一致だった。
 普遍的でない高等学校の制服、かたく結ばれた二本のおさげ髪、そばかすの目立つ青白い顔、楕円レンズを藍で縁どった眼鏡。
 そういった風体の女学生が、最初から今まで身じろぎ一つせず、此方を睨みつけていたのだ。
「初めまして、徳永はじめです」
「何度も会ってるだろ」
「誠嗣くんじゃなくて、このお嬢さんに言ってるんです」
 反論すると彼は鼻を鳴らし、頭の横でクルクルパーの仕草をした。完全に私を信じていないようだった。
 私は彼を一旦無視して──あまりにリアルで鬱陶しかったのだ──、おさげ髪の女学生に話しかける。
「あなたは誠嗣くんのお知り合いなのですか?」
「……あんたさえいなければ」
「えっ? わたし?」
「あんたじゃない! あんたさえいなければ。あんたさえいなければ。あんたさえいなければ」
「え? え?」
「大学へ行けたのに! 勉強を続けられたのに! 皆一緒にいられたのに! 殺さずに済んだのに!」
 誠嗣くんを睨んだまま、おさげ髪の女学生が叫んだ。
「誰を殺してしまったの?」
 彼女は、初めて私を一瞥した。すると、顔面の重力が失われたように眉、瞳、鼻、唇が皮膚を掻き混ぜるようにして歪んだ表情をつくった。
 見てとれる限りそれは、怒りであり、悲しみであり、恐れであり、絶望であった。
 やがて彼女はこれでもかと眦を吊り上げると、誠嗣くんの方をひたと見据え、
「誠嗣さえいなければよかったのに」
 そして、再び黙ってしまった。
「どういうことなんですか」
 私は、そっぽを向いたままの誠嗣に思わず問う。
「そうか」
 ふいに彼は、神妙に呟いた。
「俺がいなければ、よかったんだ」

 瞬間、理解した。
 肺に酸素が重く溜まる。
 私はこの夢の中において、初めて声を出すことができなくなった。
 昨夕、彼が話した悪夢とは、つまり、そういう事だったのだ。
 私こと徳永はじめに見えている夢と、冬蔦誠嗣が見ている夢は、何一つ交わらない光景を個々にみせながら、意識の先だけが接続している。現実と地続きの法則で。
 私の理解と入れ違うように、誠嗣くんの言葉が確信を帯びて響いた。
「埋めるべきは俺そのものだったんだ」
 彼の顔からは、もはや迷いは消えたように見えた。
 乾いた涙の跡がぴりりと光り、優しいだけの瞳が目の前を私をみとめた。

 ……わたしはどうすればいい?


(執筆:2023年4月7日 加筆修正:2025年3月1日)


 
 創作漫画『冬来りなば春遠からじ』を元にした三つの掌編を一つの短編にまとめました。
 はじめと誠嗣がどんな登場人物であるか、最初から最後までどういった関わりをするのかを、いつか、お見せできればいいなと思っております。作者が解説するのは野暮なので……

 過去作をひとまず整理して表に出しておきたいのには様々な理由があるのですが、それはまた後日。

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